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毎日毎日の暮らしの中で思ったことや出会ったもの....、そんなものたちを日記形式で綴っていきたいと思います。

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2002年11月28日(旧暦10月24日)
 上京の際、江戸東京博物館へ足を延ばした。10年前、ボクは江戸東京博物館のある両国から隅田川をはさんだ対岸の街に暮らしていた。買い物や散歩によく歩いていた街は当時と大きく変わってはいなかった。
 江戸東京博物館へ行った目的は、開催されている「本田宗一郎と井深大展」を観るためだった。
 HONDASONYを創りあげた両氏の「ものづくり」への夢や創造性をテーマに、創業から現在までの軌跡が実に見事に整理されていた。会場の左面をSONYの、右面をHONDAのプロダクツや資料がそれぞれ向かい合うように展示され、同時代をオリジナリティとクリエイティビティで切り開いてきたのがよくわかった。(会場では不況打破のヒントを探す人々の真剣な眼差しも印象的だった。)
 いつの頃からだろう、ボクはSONYとHONDAを自分の使う道具として積極的に選んできた。身の回りの電気製品のほとんどはSONY製だし、乗っている車もずっとHONDAの車だ。「本田宗一郎と井深大展」を観ていて、ブランドというものの本当の姿を見たような気がする。ブランドが持つ哲学や姿勢、理念がある。それにボクが共感し、ボクはそのブランドを愛用する。その人がどんなブランドを選ぶかを知ることは、ある意味その人の本質を知ることにもなる。

本田宗一郎と井深大展

 サーファーでもあるアーチスト(現在はバリに在住)、Ashley Bickerton(アシュリー・ビカートン)は80年代後半、サーフボード、車、タバコや新聞といった自らの愛用品から、(そのブランドのロゴステッカーを並べたることで)「苦悩する自画像」と題したシリーズの作品を発表していた。それを真似て、ボクも「ブランドロゴで描いた自画像2002」を制作してみた。

「ブランドロゴで描いた自画像2002」
  ブランドロゴで描いた自画像2002  (C) 2002 MAO Nagaaki.
 
 
                                   
 ヒトが道具を使うことで繁栄を続けてきた歴史の流れは、今も脈々と続いている。そのことは間違いない。ボクたちの周りを見回してみると、モノが溢れかえっている。欲望がさらなる欲望をドライブさせ、狂っているとしかいいようがない状況がここにある。ボクたちの築いてきたライフスタイルは、ともすると100円ショップに飲み込まれかねない。Jenny Holzer(ジェニー・ホルツァー)が1985年、ニューヨークのタイムズ・スクエアの電光掲示板を使って発表したメッセ−ジ、「PROTECT ME FROM WHAT I WANT」の意味は今でもまだまだ色褪せない。PROTECT ME FROM WHAT I WANT.。

2002年11月22日(旧暦11月18日-小雪-)


 和綿の収穫が最盛期を迎えている。昨年から始めたワタ畑も今年で二年目、50年か100年に一度の雨不足に泣いた去年と違い、すでに予想以上の収量をあげて豊作となっている。ボクが綿、特に和綿について詳しく知ったのは、ガンジーの「ガンジー自立の思想 自分の手で紡ぐ未来」という一冊の本を通してだった。新素材の機能がどうしても必要になるフィールド以外では、MANASTASHのヘンプやPatagoniaのオーガニック・コットンを好んで身に着けてきたけれど、農薬などまったく必要としない日本の綿・和綿の存在なんてボクはこれっぽっちも知らなかった。その「ガンジー自立の思想 自分の手で紡ぐ未来」の編者であり、自ら和綿を栽培し、和綿の種や技術を守ってきた田畑健さんの鴨川和棉農園がボクの家からそう遠くないことも偶然にしては出来すぎに思えた。


 明治中期まで、日本人は畑でワタを育て、糸を紡いで機を織り、衣類の中心素材として100%自給してきたという。その自給率も昭和30年代を境に急激に下がり始め、今では0%になっている。食糧の自給率が問題とされることはあったが、衣類の自給率については耳にしたことがなかった。各地に200種以上あったという和綿の在来種も今では40種ほどを残してすでに絶滅したという。「身土不二」、「地産地消」なんていってきたけれど、ボクらの視点から衣類の問題がすっぽりと欠落していたようだ。

棉 コットンボール

 世界の様々なエリアで現実に起きている想像を絶した貧困や差別が、テレビのニュースで連日報じられている。悲しいことだけれども、この地球上には圧倒的な不公平がある。一握りの豊かな者(勿論ボクたち日本人もその中に含まれる)が地球上の富を我が物顔でまるで狂ったように消費している。ニュース番組の冒頭では北朝鮮の食糧不足を伝え、木の皮や道端の草を食べる少年たちのスクープ映像が流されている。その悲惨な映像の僅か15分後には「食べ放題ランチ特集」や「物に溢れた片付けられない人々」、「究極のダイエット法」が平然と放送されている。ボクたちはそんな分裂症的な世界に生きている。自分と自分が立つ大地(惑星)との関係をしっかりと保っていないと、いとも簡単に足元をすくわれてしまう。


 綿を育て、チャルカ(糸車)を回して糸を紡ぎ、その糸でカディ(手織りの服)を織ることの大切さを、ガンジーがその主張の中核として、生涯を通し人々に訴え続けていたことの意味を、今こそ再認識する必要がある。アヒンサー(非暴力)、スワデシ(経済的自給)、スワラジ(政治的自立)・・・。ガンジーが求め続けた世界は、残念ながらこの惑星上では未だ実現していない。だけれども絶望する必要はない。一粒の種を蒔くことから始めればいい、一粒の種は来年には何百個もの種となる。そんなことを、ワタ畑での作業は教えてくれる。


 チャルカは、商業戦争のシンボルではなく、平和的商取引のシンボルです。この地球の国々に対する敵意ではなく、親善と自助のメッセージです。世界の平和を脅かし、その資源を横取りする軍隊の保護は必要ありません。しかし、自分で使う糸は自分の家で紡ぐのだと多数の人々が決意する必要があります。これは、今でも自分たちが食べる物は自分の家で料理しているのと同じことです。私がこれこれのことを行った、または行わなかったと言って、後世の人々から非難されることも多々あるでしょう。しかし、チャルカを復活させようと提唱していることについては称賛してもらえるものと自信を持っています。私はこのことにすべてをかけています。チャルカは一回転するごとに、平和、親善、愛を紡いでいるのです。  M.K.ガンジー「ガンジー自立の思想 自分の手で紡ぐ未来」


笠石

2002年11月10日(旧暦10月6日)


  久しぶりに笠石を訪ねた。笠石は房総半島・君津市にある巨石遺構で、その姿は日本列島に数ある巨石遺構の中でも際立った印象がある。今回は友人ら総勢7名でのミニ巨石ツアーとなった。何度訪ねても、訪ねるたびに自分の中に確かなイメージとしてあるはずの笠石が、現存する笠石に圧倒的に陵駕されてしまう。神話的であり、宇宙的でもある、不思議なモニュメントが笠石だ。

 今から10年ほど前、ボクは日本列島の聖なる場所、特別な場所を訪ね歩いていた。古い神社や縄文の遺跡、マタギ集落や草木布などの伝統の暮らしを伝える集落、日本のピラミッドといわれる山や巨石遺構、巨樹や滝、羅須地人協会やイギリス海岸・・・。この日本列島の歴史が決して「ひとつ」ではなく、この日本列島で生きた人々のライフスタイルもけっして「ひとつ」ではないことを、ボクはその日々から強く学んだ。最初のアニミズム・オンラインもそうした気持ちでスタートした。ボクはそんな場所を「Sacred Place −場所の記憶」としてウェブ上に並べていた。それもまた、インターネット黎明期の特別な場所だったかもしれない。
  久しぶりに笠石を訪ねて、最初のアニミズム・オンラインを始めた頃を懐かしく思い出すと共に、今こそ「ひとつ」ではなくて「いくつも」あることが大切なんだと改めて強く思った。この列島の上にはそれこそ星の数のほどの特別な場所がある、そのことを再確認することが今こそ必要なんだとボクは思う。

2002年11月01日(旧暦9月27日)

 ジャイアンツが日本シリーズを圧倒的な強さで制し、日本一になった。ボクはかなり熱心なジャイアンツ・ファンで、140試合のほとんどを衛星放送と地上波を通して観戦してきた。もちろん日本シリーズにも釘づけになっていた。

 「精神世界」と言う言葉を耳にすることが多くある。正直に言って、ボクにはこの「精神世界」と言う言葉がどうもピンとこない。ボクたち人間が「身体」を持ってこの惑星に誕生することにはきっと大きな意味がある、そのことを忘れてはいけない。ボディ・マインド・スピリット、この三要素のハーモニーこそ「健康」であり、「美」であり、「well being - より良く生きる」ことに他ならない。訓練と管理によってソリッドに整えられた身体を通すことでしか、精神の力を具現化することはできない。「気(合)の入った一球」を投げるためには、高い「身体性」が必要なのだ。今シーズンのジャイアンツを見ていて、そのことを強く感じた。ボクよりも年上の工藤公康は徹底した自己管理とトレーニングで1シーズン先発ローテーションを守り通した。いち早く近代的トレーニングを取り入れた桑田真澄は、今では甲野善紀氏の主宰する古武術の道場「松聲館」に通い、日本の伝統的な身体使いを自らのピッチング・フォームに見事に取り入れている。最優秀防御率を獲得した19歳から15年、桑田真澄は今年再びそのタイトルを手中にした。そういったことは、本当にすごいことだとボクは思う。
ジャビット
 松井秀樹はついにメジャー行きを決意した。エディ・ウッド・ゴー、上のステップがあるならば、どんどんチャレンジすべきだ。来シーズンはメジャーのゲームからも目が離せない。メジャーのゲームに、ジャイアンツのゲーム、ボクはいったいいつ仕事をすればいいんだろう(笑)。

龍村監督講演会

2002年10月14日(旧暦9月9日-重陽-)


 昨日今日の二日間、三芳村で開催された「三芳村地球まつり」に行ってきた。映画「地球交響曲」一番から四番までの連続上映と龍村仁監督の講演会は、思った以上に盛況で、第一作の公開から今日までの10年という時間の重さや時代の変化を痛感した。「地球交響曲」のそれぞれは今までに何度も見てきたけれど、全てを連続して見るという今回の経験は、「地球交響曲」という作品のベース、背後に流れる大きなテーマをくっきりと見せてくれた。

 80年代後半から90年代初頭にかけて、ボクは日本の古い神社を訪ね歩いていた。なかでも奈良・吉野の大峰本宮天河大辨財天社へは足繁く通っていた。神事の際、撮影をする龍村仁監督を何度か目にしたことがあったが、そのときはそれが「地球交響曲」の撮影だったことなど、ボクは知らなかった。(完成した映画では、天河での映像はわずかに使われている程度となっている)。
天河曼陀羅

 1992年7月の「天河曼陀羅」と題されたイベントで、「地球交響曲」で使われることのなかった天河の映像を再編集した「天河交響曲1992 春夏秋冬」を見たことがある。画面の中の、キラキラと煌く水の流れの美しさ、護摩の火の強さを今でも鮮明に覚えている。神=カミ=火水、そう、そうなんだとそのときボクは心の中で何度も頷いていたことを今でもはっきりと覚えている。


 「地球交響曲」のクランク・インは1989年7月の天河大辨財天社遷宮の日、弥山山頂での大護摩だったという。そして、「地球交響曲」が一般公開されたのは、「天河曼陀羅」において「天河交響曲1992 春夏秋冬」が上映された、まさにその日だった。「地球交響曲」という作品は、最初からそういった「不思議な」運命を持っていたように思う。


 現代の技術文明の恩恵のなかで生きている私たちは、「予期せぬできごと」が起こらないことが人生だ、と錯覚しているフシがある。今日と同じ明日が続くことを保持しようとして、進歩させてきたのが技術文明だ。
 もちろん、私自身も充分にその恩恵を受けている。しかし、どんなに技術文明が進歩しようと、宇宙の摂理、自然の摂理、生命の摂理では、「予期せぬできごと」が起こるほうが真理なのだ。定められた未来というものは、じつはない。今この一瞬に生起している無限に近いさまざまな因子の複雑な絡み合いによって、“未来”は一瞬一瞬に生起している。だから、未来を確実に予測することなど不可能だし、ましてやコントロールすることなどできるものではない。そのことを知っているのは“情報”や“知識”によって飽和状態になっている頭脳ではなく、身体から直接湧き起こってくる生命の力、すなわち直感だ。生命はいつも「予期せぬできごと」に備えている。だから、「予期せぬできごと」が起こったとき、本来ならたちまち活性化し、生き延びるために最大限の能力を発揮しようとする。それが生命力だ。(「生命力と直感」龍村仁 地球交響曲第四番イメージブック)

 一般公開された「地球交響曲」を見ていたとき、10年後に房総半島の静かな村の農村環境改善センターの、はっきりとしたつなぎ目が4本もあるスクリーンで見ることなんて想像もしなかった。サーフィンしながらの海辺の生活へとボクを導いてくれたジェリー・ロペスの素敵な姿を、「地球交響曲」で見るようになることだってまるっきり想像外だった。でも、今、それが現実になっている。今年中に早くも制作にとりかかるという(時代がそうさせている)第五番では、どんな人たちが素敵な言葉を聞かせてくれるのか、ボクは今から楽しみにしている。

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