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毎日毎日の暮らしの中で思ったことや出会ったもの....、そんなものたちを日記形式で綴っていきたいと思います。

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2002年9月7日(旧暦8月1日)

 テレビドラマ「北の国から」が、「北の国から 2002遺言」で22年にわたる物語の最後を迎えた。

 4年前の冬、ボクはスノー・ボーディングのために富良野を訪れ、新富良野プリンスホテルに宿泊していた。そこで「北の国から」を見たのがボクと黒板家との遅すぎる出会いだった。「北の国から」が田中邦衛主演の富良野を舞台としたドラマだということはボクもなんとなくは知っていた。でも本当は何も知らなかったということを後になって痛感した。

 大量生産・大量消費のシステムから抜け出して、自らの暮らしを自らの手でつくりだすという、誰もが忘れてしまった(忘れようとしてきた)生き方を、五郎さんは22年前から今日まで見せ続けてくれた。

 自らの手で家を作り、炭を焼き、麦・ソバ・野菜を作り、井戸を堀り、羊を飼い、バイオ発電までも試みようとする…、「2002遺言」での五郎さんの暮らしは、とてもシンプルで、スローで、スモールで、思いっきりクールだ。今、ボクたちが理想の暮らし方として、必死に探し求めている暮らしそのものではないだろうか。シリーズが終わってしまうことはなんだかすごく悲しいけれど、今は五郎さんの最後の遺言を大切にして生きていきたいと心から思う。

倉本聰メッセージ
黒板五郎の流儀  
「ありがとう北の国から」展 倉本聰メッセージ 日本版「自給自足の本」/「黒板五郎の流儀」

ぼのぼの

2002年8月27日(旧暦7月19日)


 新宿武蔵野館で映画「ぼのぼの クモモの木のこと」を見た。93年の前作からおよそ10年、新しいぼのぼのは、ぬいぐるみみたいにふわふわになってボクの前に帰ってきた。オープニングから、一気にぼのぼのの世界(宇宙)に引き込まれてしまい、61分という短い上映時間は本当にあっという間に過ぎてしまった。といっても、次から次へ事件が起きるのでもなく、台詞を追うのに忙しいわけでもない。こんなに台詞の少ない映画はそうはない、見終わった後にほとんどの台詞を覚えていた。この映画を満たしている「間」が心地いい、この「間」がぼのぼのの世界(宇宙)のリズムなんだろうとボクは思う。そしてこのリズムが、ボクたち人間以外のこの惑星に暮らす生命たちのリズムなのかもしれないと思った。

Jaguar
 
 映画館を出て、発売されたMacOSX10.2 (Jaguar)を買うためにヨドバシカメラに向かった。手に取ったOSXのパッケージには、アクアのイメージが美しかったブルーのXの文字に変わって、ジャガーの毛皮に覆われたXの文字があった。毛を生やしたのはぼのぼのだけじゃないんだと思って何だか妙におかしかった。
横尾忠則 森羅万象
 東京都現代美術館で開催中の「横尾忠則 森羅万象」を見た。およそ40年にわたるアーティスト活動を、19のテーマ、400点もの作品で一望できる構成となっている。
会場を埋め尽くす10代の若者たちの熱気に、あらためてスター・横尾忠則の強烈な存在感を思い知らされる。思い返すと、いつだって横尾忠則の展覧会はその時代の10代の若者たちでいっぱいだった。ボクが初めて氏の作品にダイレクトに接した25年前、ボクは10代前半の若者、というか少年だった。あれから25年、作風も時代背景も大きく変化しているのに、横尾忠則というアーティストのスターとしての存在感だけが変わらない。そう、だから彼はスターなのだ。

2002年8月15日(旧暦7月7日ー七夕ー)

 友人夫妻が夏の海を楽しみに川崎から遊びにやってきた。その折に、川崎市岡本太郎美術館で開催されていた「ゴジラの時代SINCE GODZILLA」展の図録を手土産に買ってきてくれた。
 ボクがアニミズムやシンプル・スロー・スモールといったことを思うようなタイプの人間になったのは、幼い頃から今日までに、様々なものを見聞きし、様々な体験をしてきたからに他ならない。なかでも、幼い頃の「ゴジラ」がボクに与えた影響はその核になっているように思う。「ゴジラ」だけでなく、同じく円谷英二の「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」、水木しげる先生の「ゲゲゲの鬼太郎」など、幼かったボクの中にインプリンティングされた「教え」にボクは感謝している。
 ゴジラをはじめとする怪獣や妖怪たちは、人間同士の争いや開発、公害の犠牲者であり、自然からの人間への抗議として立ち現れてくる。ダム開発に眠りを妨げられたレッドキング、伝統的な山の暮らしを守るために現れたウー、ゲゲゲの鬼太郎に現れた河童、天狗、海坊主などの小さなカミたちの姿・・・。そんな異形のモノたちからのメッセージは幼心に、戦争、原子力、開発、公害への絶対的な嫌悪感を植えつけてくれた。
 アイヌの旋廻するようなメロディも、伊福部先生の「ゴジラ」の音楽を通じてボクの中にしっかりと刷り込まれている。ボクはアイヌを知りアイヌと出会う前に、ボクの中にアイヌのメロディがすでにしっかりと存在していた。今、「ゴジラ」の音楽を聴くと神楽からゴジラのテ−マまで、ボクにはアイヌのメロディそのものにしか聞こえない。

ゴジラの時代
DVD「ゴジラ」  久しぶりに1954年の「ゴジラ」をDVDで観た。(50分におよぶ伊福部先生のインタビュー映像が凄い。)終戦から9年を経た1954年という年は、第五福竜丸がビキニ環礁において、(皮肉にも)「ブラボー」と名づけられたアメリカの水爆実験による死の灰を浴び、ヒロシマ・ナガサキの悪夢が亡霊のように日本人にせまってきた年である。(今から15年ほど前、広瀬隆さんの「反核」をテーマにした講演を聞く機会があった。そこで見せられたアメリカの核実験のリストの中にはヒロシマ・ナガサキもしっかりと「実験」としてリストアップされていた。)そんな時代背景の中作られたこの映画は「反戦反核映画」の傑作だとボクは思う、ボクの中にある本能的な原子力に対する嫌悪感、戦争に対する嫌悪感の多くは、幼い頃に見たこの映画が焼き付けたものなのだと改めて痛感する。
 ゴジラ誕生からまもなく50年になるが、ボクたちをめぐる状況は何にも変わっていない。人間の独善的な振舞いは毎日多くの種を絶滅へと追いやり、人間はといえばお互いに争い殺しあっている。
   

 数年前、突然原子力爆弾を詳しく知りたいと思ったことがある。イメージではなく、それがどのように生まれどのように使われたのか、そしてどのくらいの破壊力だったのか。  
 同じ頃突然、恐竜たちがこの惑星で暮らしていた痕跡を訪ね歩いてみたいとも思った。恐竜たちが動き回っている世界をリアルに感じてみたいと思った。なぜそんなことを同時期に考えたのかは今でもわからない。(無意識にゴジラの影響があったのかもしれないなと、今思う。)人間が作り出した恐ろしい破壊力と、かつてこの惑星を支配していた大型の生物たち。ひょっとすると、もうボクたちは恐竜と同じように絶滅への道を歩み出しているのかもしれない・・・、そんなこともふと考えることがある。
 

 今日は終戦記念日、ジョン・エルス監督による原爆開発のドキュメント「ヒロシマ・ナガサキのまえに」を、ボクはまた見ようと思う。

「ヒロシマ・ナガサキのまえに」
   
       

2002年07月22日(旧暦6月13日)

 夏休みになり、海辺に人が溢れている。シュノーケリング、スキンダイビング、ボディ・サーフィンに磯遊び、水温と気温が上がってくるこの季節、海はボクにとっても格好の遊び場になる。サーフィンのために毎朝入る海とはまた違った表情をした、もうひとつの「楽しい」海があるように思う。たとえ僅かな距離であっても、海に入っていくというアクションは、森の中へ入っていく行為や高い山に登る行為などと同じく、瞑想的な体験であり、「身体で思考する」世界へ立ち戻る貴重なチャンスといえる。さあ、海へ行こう。

  moss 19'parawing


 正直言って、大勢の人々が持ち込んでくる非日常の時間が、日常の時間に暮らすボクを戸惑わせるのもまた事実だ。喧騒、ゴミ、渋滞。ビールの空き缶、バーベキューや花火の残骸。できることなら目にしたくない光景もまた多い。


 そんなものに苛々せられるのは嫌なので、そんなときは海辺をはなれて山間に行ってみる。1〜2月は一足早い春を感じようと、ハイカーで賑わう安房の低山も今の季節は人影もない。誰もいない山の広場にモス(moss)のタープを張って、質素なランチを摂り、コーヒーを淹れる。ただただ風の心地のよさを感じていると、まるで高原にいるような錯覚におそわれる。ときおり風に乗って聞こえてくる海水浴場のアナウンスが、SF映画のサウンド・トラックのように聞こえ、なぜだか妙におかしかった。

                     

2002年07月20日(旧暦6月11日-土用-) 

 7月だというのに、季節はずれの台風が相次いで上陸した。その台風が去ってどうにか梅雨が明け、一気に夏の気配が濃くなってきた。日本列島に(梅雨)前線が居座ることで毎日のように雨が続くことを、梅の雨と書いて梅雨(つゆ)という。そんなことは誰だって知っている。だけれどその本当の意味をよりリアルに知るためには、6月初旬からの梅仕事を知る必要があると、ボクは思う。
 田舎で暮らし始めたころは、今では思いもつかないような高価なブランド梅をスーパーで買い求めて、梅酒を仕込み、梅干を漬けていた。今思うと、実に高価な自家製梅干だった。今では、知り合いや友人の家から、枇杷やプラム同様、山ほどの梅を分けてもらっている。この山ほどの梅を梅酒、梅肉エキス、梅干などに仕込んでいくのが、ボクの家の梅仕事だ。

 梅仕事は、まだまだ若い青梅を梅酒に仕込む作業からはじまる。広口ビンに青梅とホワイトリカーや泡盛、それといくらかの砂糖を入れ寝かしておくだけ、年単位のゆっくりした時間が芳醇な梅酒を作り上げてくれる。夏の暑い盛りに飲む梅酒のソーダ割りの美味しさはビールにも匹敵する。


 梅酒の次にとりかかるのは梅肉エキス作り、この作業は実に手間がかかる。梅の実を梅割り器でひとつひとつ丁寧に割り種をとり、すりおろし、梅ジュースを絞る。絞った梅ジュースを弱火でコトコトと一日がかりでゆっくりと煮詰めていく。ル・クルーゼ(Le Creuset)のホーロー鍋にいっぱいの梅ジュースはやがて、小瓶ひとつ分の黒くて透明な梅肉エキスになる。こうしてできた梅肉エキスはボクの家での大切な常備薬となっていて、あらゆる場面でその効果に驚かされている。(ワイル博士「ナチュラルメディスン」と並び、本棚に欠かせない自然療法の名著、東条百合子「家庭でできる自然療法」(あなたと健康社)に梅肉エキスの作り方や使い方を教わるところが多かった。)


 梅仕事の最後には、いよいよ梅干作りが待っている。本物の塩と赤紫蘇、それと梅だけで作る本当の梅干作りだ。よく熟した梅の実に本物の塩をまぶし重石をすると、梅酢が出てくるので、そのまま梅雨のあいだ漬けこんで置く。そう、梅雨とはまさに梅をつけている時期のこと、このことを知ると誰もが抱く梅雨のマイナスイメージが消えていく。梅雨明けを待って土用のころ、三日三晩にわたって太陽に干し、夜露にあてる。この作業で梅漬けが梅干へと変わっていく。これを梅酢に通して瓶に戻せば梅干が出来上がる。できることなら、すぐには食べずに2〜3年は寝かせたい。(漬け初めのころは1/4〜1/3を寝かせておき、残りを食べるといい。)まろやかで口当たりのよい(けれども本当の酸っぱさの)梅干になる。本来は保存食であり家庭薬であった梅干、(保存料も冷蔵庫も要らない)昔ながら本物の梅干が食べたいと思うなら、手間と時間を惜しまずに(手仕事の喜びと健康の見返りはそれよりもはるかに大きい)自ら梅仕事に励むことをおすすめする。

梅肉エキス作り 土用の天日干し
         
       
   

 自然の食物は、もし失敗しても、いろいろ次の加工が楽しめて新しい創造が生まれます。心によろこびがある時、心と共にたのしい作品が次々ととび出して参ります。そしてそれを食べてくださる方々にその心が伝ってほのぼのと心あたため安らぎを与えるのです。
 世の中は公害だの添加物だのと、不健康の中に暗く閉じこめられていますが、自然に帰ろうと思う時、自然はまず食卓の中にやってきてくれて、明るくあたたかいなぐさめをくれます。「家庭の味 手作り食品」東条百合子

   
       
         

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