●私には朝の時間がたのしい
思うところがあって、安房地人協会近くにある、詩人・百田宗治の墓を訪ねてきた。
百田宗治の名は知らなくても、童謡「どこかで春が」を知らない人はいないだろう。
SFをのぞく小説にリアリティを感じられなくなってもうずいぶんと時間が経つ。
「文明」に対して批評性を持ち得るSFはともかく、詩や歌をのぞいて、「文芸」にはもう役割がないのではないかとさえ思える。
「詩」とは何だろう、「詩人」とは何だろう。
そんなこと思いながら、きっと百田宗治も見ていただろう、異様に大きく見える富士山を見ながら歩いた。
朝の時間 百田宗治
私には朝の時間がたのしい、
一杯に日ざしの照りわたつた障子の中で
しづかに、明るい自分の心を視ることは幸福だ。
深い熟睡のあとで、こゝろよい茶のあとで、
一日の仕事のことを考へるのはたのしい。
その日の仕事には破綻や失敗があつても
この明るい希望にみちた心はうしなはれない、
あたゝかい、明朗な朝の日ざしとともに
私の魂は洗はれ、きよめられて生誕する。私はハタキをかけるぱたぱたと云ふ物音を耳にする、
小犬たちの鈴の音を聞く、
臺所戸口の開け閉めの音や、バケツのがたんごとんと云ふ響きを聞く、
ほどちかい小學校での生徒達の足音をきく、わいわい騒ぎたてる物音を聞く、
しかし私の頭は掻きみだされない、
あたたかい日ざしのなかに
それらの物音が喜々とし、よろこび勇んで空の方にたちのぼつてゆくのを聞く、
萬能の神が彼等を召してゐるのを聞く、
朝の一絲みだれない諧調音をきく。朝の日ざしは遲々として屋根瓦の上を歩む、
障子のおもてを歩む、
小雀の影のまへを過ぎる。
朝の日ざしは快活で、幸福な揺籃のやうにゆれる、
典雅な宗教儀式のやうに進行する。私には朝の時間がたのしい、
一杯に日ざしの照りわたつた障子の中で
しづかに明るい自分の心を視ることは幸福だ。




