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2007年07月30日

●すべての海岸で、過去と未来がくり返されている。

 今朝もうねりはなく、真夏の海はサーファーには嬉しくはない。こんなときは、ないものを欲しがるより(台風5号[USAGI]のうねりが届くまで)、気分を変えてシュノーケリングを楽しもう。マスク、シュノーケル、フィン。たった三つの道具が、今まで知らなかった豊穣な生命の世界を教えてくれる。

 すべての海岸で、過去と未来がくり返されている。時の流れの中で、あるものは消え失せ、過ぎ去ったものが姿を変えて現れてくる。海の永遠のリズム ーそれは潮の干満であり、打ち寄せる波であり、潮の流れである。ー の中で、生命は形づくられ、変えられ、支配されつつ、過去から未来へと無情に流れていく。なぜならば、時の流れの中で、海辺の形が変わると、それにつれて生命の様相も変化するからである。それは決して静的なものではなく、年ごとに変わっていく。海が新しい岸辺をつくりだすたびに、生物が波のように押し寄せ、足がかりを探し、ついにかれらの社会をつくりあげる。そして、私たちは生物が海にあるすべての有形な存在として、一つの確実な力であると感じとるのだ。その力は、満ちてくる潮によって、決して押し潰されたり、迂回させられたりすることがないほど強靱で、しかも目的をもっているのである。

レイチェル・カーソン「海辺―生命のふるさと

 

2007年07月29日

●自らの欲望と現在のような楽なライフスタイルへの中毒

 今朝も遠く六ヶ所と繋がった海で1時間ほどサーフィン。真夏の海は、かろうじてテイクオフができる静かな海だ。インサイドのショアブレイクで子どものように無邪気に遊ぶしかない。

 10分ほどして、少し沖に、スナメリが泳いでいることに気づいた。ボクとの距離は30メートルくらいだろうか。ボクはパドルで彼らに近づいていく。彼らも、魚を追ってゆっくりと沖へ向かっている。真夏の、非日常的な賑やかな海で、ボクと彼らだけしかいないような、至福の時間だ。
 ボクが何をしているのか、他の誰にも知られていない。

 ゆっくりと泳ぐ彼らを見ていると、ついつい考えてしまう。
 いうまでもなく、ここは、彼らの海だ。彼らは海を汚すこともないし、もちろん陸に上がって、廃棄物を積み上げるようなことはしない。だけど、ボクたち人間はというと・・・。

 今、本気で考えなければ、きっと、取り返しがつかなくなる。そう、今、すぐに・・・。


 自らの欲望と現在のような楽なライフスタイルへの中毒、あるいはささいな違いに起因する人間の集団間の全面戦争によって私たちが自らを滅ぼすのであれば、それはそれなりに理解できる。というのも、それが人間の生き方が持つ大きな欠陥の一つであるということが理解できるからである。その可能性については心の準備もできている。だが、私が我慢できないのは人間が他の生き物たちも道連れにするかもしれないことだ。このことは私がこれまでに感じたことのないような強い怒りで私の心をいっぱいにする。それは私の心の中にある火山が噴火して溶岩が流れ出るかのように私を圧倒する。過ちはどうしても起きるものだが、そのような過ちは悲しみを超えている ー 常軌を逸した全く許すことのできないものだ。それほど非常識なことができる種の一員にはなりたくないものだ。どういう名のもとでそれが行われるかというのはどうでもいいことだ。どれほど真剣に自らの使命を考えているかも関係ない。とにもかくにも愚かすぎて許すことのできないことだ。

ロジャー・ペイン「クジラたちの唄」 

2007年05月13日

●石の人の話すことに

 朝、いつものようにRSSリーダーを眺めていて、ちょっとビックリすることがあった。

 尊敬する語り部、北山さんの「Native Heart」の記事のタイトルが「石の人の話すことに耳を傾けてごらん」だったから。


 実は今日、テトラスクロールのギャラリー企画第一弾の打ち合わせで須田郡司さんとお会いした。細かい打ち合わせも終わり、やっと発表できる。

 テトラスクロール・ギャラリー企画第一弾
 「VOICE OF STONE - 聖なる石に出会う旅(仮題)」6/8 - 6/21
  関連イベント 「石の語り部〜日本石巡礼」(スライドトーク)6/16 17:30~

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須田郡司さんを初めて知ったのは、もう17、8年前になるだろうか、ブッククラブ回で見つけた「フォトダマ通信」に驚き、思わず購入した時だ。当時はボクも東北地方などに出かけては、様々なイワクラや巨石遺構、縄文の遺跡などを巡っていたので、妙なシンパシーを抱いたのをよく覚えている。あれからずいぶん時間が経ったけれど、テトラスクロールで写真展を開催できることが、なんだかとても嬉しい。

2007年05月12日

●「今日は、木蓮さん」、「今日は、泰山木さん」

 朝、庭におりたって木々にあいさつする。「今日は、木蓮さん」、「今日は、泰山木さん」。
 もちろん、木は返事をしない。しかし、泰山木の枝にぶらさがり、木蓮の肌に触れていると、ゴツゴツした、ザラザラした肌ざわり、触覚をとおして、木々の返事がかえってくる。
 自然のなかの応答、感覚のやりとり、そこにアニミズムの出発点があるのではなかろうか。
あの枝にカミがいる。この木にカミが宿っているという前に、そこにアニミズム以前の風景がひろがっているのだ。

アニミズム時代」岩田慶治


 何年ぶりのことだろうか。
 一人暮らしの朝を迎えたのは。

 きっと20年はたっているだろう。
 最後の一人暮らしからは。
 そして、旅を別にすれば。
 
 心機一転。
 精算。
 聞こえはいいがどれも少し違う。

 あえていえばmindfullness、マインドフルネス。

 さて、駅まで20分、のんびりゆっくり歩いて出かけよう。
 

2007年05月05日

●存在することは、相互依存することである

サティシュさんの講演後、「君あり、故に我あり―依存の宣言」を何度も読み返している。アニミスティックな、キラリと輝く言葉がとてもいい。ティク・ナット・ハン師やダライ・ラマ法王猊下とも共通する東洋的なエレガントな知性がとても心に響く。

「すべては与えている」とジャイナ教徒はいう。太陽は植物に光を与え、植物は鳥に果実を与え、鳥は種を運び、種は自らを土に与え、そして土は種に命を与える。
 仏教徒はこの現象を「相互依存の現象(因縁生起)」と呼ぶ。太陽が昇るとき緑の芽が現れ、葉が広がり、花がつぼみをつけ、果実が形作られる。太陽と共に鳥は目覚め、太陽と共に人は目覚める。皆、共に目覚める。それぞれの目覚めは他のものの目覚めによっている。仏陀はこれに気づいたとき悟りを開き、ニルヴァーナ(涅槃)すなわち解脱の状態に達した。しかし、すべての生物が悟りを開くまでは一人だけのニルヴァーナはあり得ない、と仏陀はいった。私たちは共に上がったり下がったりし、究極的には私たちは皆一緒に沈んだり浮かんだりするのだ。私たちは相互依存である。「存在することは、相互依存することである」。私たちは、自分自身だけで存在することはできない。これは私たちの存在は他者の存在があって初めて可能であることを意味する。私たちは個別的存在ではなく、世界的存在なのだ。

君あり、故に我あり―依存の宣言」サティシュ・クマール
2007年03月21日

●この惑星にあまねくある普遍的な存在だと知ること

ちょうど12年前、ボクは志村ふくみさんの「織と文」を紹介する一文にこう書いている。
 

「織と文」は染織家・志村ふくみの染織と文による作品集だが、そんな枠組みを越えてこの宇宙にあまねく在る生命の輝きに僕たちの意識を運んでくれる。「色は色でない」と語る著者は植物の中に秘められた生命、その生命の輝きを僕たちに眼に見える色として紡ぎ出す。いわば植物の持つ秘められた色が僕たちの眼に見える形として降臨するための依代となっているのである。漁労、狩猟、芸能、陶芸...、考えてみれば見える世界と見えない世界の境界線に見え隠れする生命の輝きを人が依代となることで出現させるのが職であり芸であったはずである。もはやその力は僕たちの中から大きく失われてしまったのかもしれないが、僕はその境界線を見つめていたいし、越えてもいきたい。人間の領域を越えた呪術的ともいえる動物の領域にも心は飛んでいってしまう。

宗教、いや、祈りだってきっとそうだったはずなのだ。それなのに、世界を破滅へと追いやりかねない争いを現代の宗教は続けている。「自分が特別な存在」などではなく、この惑星にあまねくある普遍的な存在だと知ることこそが、宗教的な感情の根源にはあるはずだ。そのことを忘れてはいけない。絶対に。絶対に。

2007年02月05日

●彼らは人間たちのところから何を持ち帰るのでしょう

敬愛する詩人・ゲーリー・スナイダー。彼の名著「野性の実践」から。

 ある白人の若い女性にこんな質問をされたことがあった。「もし、我々人間が動物たちを粗末にすることなく食べ、動物について歌い、その姿を描き、それに乗ったり、そして動物についての夢を見るなら、彼らは人間たちのところから何を持ち帰るのでしょう。」これはまさに、動物たちの側から見た礼儀作法を考えさせられる良い質問だ。アイヌの人々は、「シカ、サケ、そしてクマは我々の音楽が好きで、人間の言葉に魅せられるのだ」と言う。だから我々は、サカナや狩りの獲物に歌を贈り、感謝の言葉を口にする。ときに彼らのために踊り、それなりのお返しをする。パフォーマンスは、深遠な世界を支える「贈り物」経済の「通貨」なのだ。おそらく他の生き物は、たえず洋服を変え、あまりに多くのものを食べる人間を、軽薄な動物だと思っているだろう。自然は、ヒトに好意ももっているので、現代人もそんなひどいことをせずに、ヒト以外の仲間たちにも同じように接してほしいと願っている、私はそう考えずにはいられない。
2007年01月31日

●いわゆる”幸福”を逃してしまったのだ

敬愛する奇人・水木しげる先生がフランス・アングレームのベストコミック賞受賞したというニュースから(アニメ!アニメ!より)。

 1月28日までフランスのアングレーム市で開催された第34回アングレーム国際バンド・デ・シネフェスティバル2007は、オフィシャル2007のベストコミックブック賞に日本のマンガ家水木しげる氏の『のんのんばあとオレ』を選出した。  アングレーム国際バンド・デ・シネフェスティバルは、フランスで最もよく知られたコミックの祭典で、オフィシャル2007はそのなかの中心的なイベントである。ベストコミック賞はフランスのコミック界で最も価値のある賞であるともされている>。
 オフィシャルセレクションは国籍を限定しないため、日本のマンガがフランスでポピュラーになった2000年以降、ノミネートに日本の作品が入ることは珍しくなくなっている。  しかし、これまで2005年につげ義春氏や日野日出志氏の作品がノミネートされたことはあるが、全ての賞の頂点でもあるベストコミック賞を日本人マンガ家が受賞したのは初めてである。  アングレームのコミック賞は、大衆的な人気がある作品と評価の方法や考え方が異なる。しかし、今回の水木氏の受賞は、日本のマンガがフランスにおいて大きな影響力を持つようになったことをあらためて考えさせるものといってよいだろう。

さあ、次は「妖怪千体説」でノーベル賞受賞のニュースを待とう!!。

 いわゆる文明人というのは、貨幣経済に支配されているから、金がないとひどく恐怖する。事実、金がないとジュース一本買えない。
 ところが南の住人(自然民族というべきか)たちは、畑では最低生活は保障されているから、死ぬことはない。こういうことが、南方の人たちの奇妙なノンキさと関係していると思う。
 本来、人間はガツガツ働かなくてもいいのだ。文明人というのは、自分で勝手に貨幣を作り、便利がっているうちに、過分な価値をおくようになり、いわゆる”幸福”を逃してしまったのだ。「世界妖怪大全―世界はゲゲゲ」より
2007年01月26日

●You are Ecco

リリィ博士に関連した原稿をもう一つ(コラム「VOICE OF VOICE モニター画面に泣く私1」)。あの時のことは今でも忘れられない。博士はすでに地球での旅を終えたが、きっと今でも・・・。(STUDIO VOICE VOL219 1994)

 現代は「物語」や「神話」をなくしかけているように思える。「ドラクエ」も「学校霊花子さん」も「超古代史」もなくしてしまった「物語」や「神話」への欲求なのかもしれない。「物語」や「神話」への想像力を喚起してくれるものを私は愛してやまない。そんな私がググッと感じたのが、「ECCO THE DOLPHIN」である。この一本のゲームソフトは、あらかじめゲームとしてプログラムされた「物語」を大きく超えて、様々な伏線ともいえる「物語」を感じさせてくれた。
 当時、日本橋に仕事場を構えていた私は、怪しげなものを求めて、秋葉原へ自転車で散歩に出るのを常としていた。御存知ない方も多いかもしれないが、秋葉原には輸入ゲームソフト専門店がいくつかあって、海外で発売されたNES(ファミコン)やSーNES(スーパーファミコン)、GENNESISS(メガドライブ)等のソフトを販売している。(この輸入ゲーム屋の雰囲気が怪しくてたまらない、ちょうど15年前位の輸入レコード屋の感じなのである。)ある日のこと、いつものようにへんてこソフトを物色していると、イルカが描かれたパッケージが目に飛び込んできた。ん、と思い手にとると「ECCO THE DOLPHIN」と書かれている。は、と思い裏を見ると「You are Ecco」の文字。いきなりそんなことを言われても困るぞ、と思いつつも、私の頭の中には一瞬にして「イルカ〜ECCO〜我が敬愛するジョン・C・リリィ博士」の一直線思考ラインが輝いていた。ECCOとはいうまでもなく、リリィ博士がコンタクトする宇宙的存在、地球暗号制御局である。思わず裏面の解説に博士の名を探して見たがどこにもない。どうやら、ECCOという名のイルカの冒険物語のようである。イルカでECCOときたら買うしかない、と購入し、私は急いで帰って深海への真昼の冒険の旅に出た。
 これが実に気持ちいいのである。よく、ゲームをしているうちに身体が動き始め、段々とキャラクターの動きに同調しはじめる人がいるが、その究極という感じなのである。イルカの動き、ジャンプが自らの生理的快感に直接繋がってくる感じなのだ。イルカをコントロールしているはずなのに、いつしか自らが跳ね、泳いでいるような気分になっている。酸素が足りなくなると自らも息苦しいような気さえしてくる。ECCOは海に起きた大異変と共に消えた仲間を探して旅に出る。クリスタルやクジラやオルカに助けられながら、北極海から古代遺跡、5500万年前の海、そして宇宙の彼方の「星」にまで。これはECCOの旅であり、同時に私の旅でもある。そして、これはECCOの「物語」であり、同時に私の「物語」でもある。モニターの中のイルカと私を結ぶものはヘッドマウントディスプレイでもなんでもなく、二本の親指だけであるにもかかわらず...。これは、感動である。所詮VR、AIなんていったって、私にはこの「ECCO THE DOLPHIN」や「ぼのいぢり」の身体感覚や知能レベルで十分だ。少なくとも私たちの心や身体が次のステップに移る日までは。(もっとも「ECCO THE DOLPHIN」も次のステップに移るためのアイテムなのだが。)
 余談ではあるが、我が敬愛するジョン・C・リリィ博士が来日した折、伊豆の友人宅で行われた博士を囲むワークショップでの夜、私が友人のCG作家、デザイナー、プログラマーらと「ECCO THE DOLPHIN」に熱中しているのを見つけた博士は一言「エコー」と、モニター画面の中の一頭のイルカにやさしく呼びかけた。そしていつまでもやさしく画面の中のイルカを見つめていた。BGMは博士のアシスタント、フィリップ氏がフォークギターの弾き語りで歌うバグルスの「VIDEO KILLS RADIO STAR」だった。これも「ECCO THE DOLPHIN」が生んだ、もう一つの「物語」といえるのかもしれない。
2007年01月22日

●人間の将来像と、この地球上のサバイバルの可能性

先日のエントリー「現在の生き方以外の生き方」で紹介した、ジョン・C・リリィ博士「イルカと話す日」についてボクが書いた書評から・・・。今見ると、妙にキーワードだらけで恥ずかしいが、ここに転載しておく。

それまでの沈黙が嘘だったかのように、立て続けて来日を果たしたジョン・C・リリィ博士。自らの手で、自らにかけられた神秘のベールを徐々に剥いで行くかのようなここ数年の博士の言動から目を離すことができない。謎と伝説に彩られた博士の歩みが、今、この時代になって明らかにされてくることは「生命」の大きな意思とも思える。そしてこのことは同時に、我々に博士の歩みを理解できる時期が訪れたことを意味しているともいえるだろう。イルカ博士として高名なジョン・C・リリィ博士ではあるが、残念なことに博士のイルカ博士たる著作を目にするためには古書店に足しげく通うか、原書にあたるしかなかった。(もっとも博士の人間追及の著作「サイエンティスト」、「意識の中心」などからある程度垣間見ることはできた。)。この「イルカと話す日」は今から16年前、1978年に出版された「Communication Between Man & Dolphin」の待望の邦訳である。イルカとの異種間コミュニケーションを謳った「Man and Dolphin」(1961年、学習研究社・絶版)、姉妹篇「The Mind of the Dolphin:A Nonhuman Intelligence」(1967年、未邦訳)に続いて出版されたこの一冊は、1955年から始められた、博士の膨大なイルカ研究の実態を具体的に知ることができる歴史的な著作といえる。本書に収められた豊富で貴重な図版やデータは我々の常識をいとも簡単に覆してしまう。イルカ・クジラを「脳」を手がかりに認識しようという博士の試みは、科学者、研究者の資質や資格、心構え(=生態系の一員としての自覚を持った科学的観察者)やイルカ・クジラをも範疇に加えた新しい法律の制定、イルカ・クジラの権利、イルカ・クジラとのコミュニケーション成功後の社会、産業にまで広がりを見せる。多くの哲学者や詩人、ナチュラリストが試みたアプローチを、あくまでも科学者という立場で貫こうとした博士の意気込みが今なお感じとれる。出版当時に博士が確信した異種間コミュニケーションは現時点では未だ現実のものとはいえないが、博士が今なおゆるぎない確信を持ち続け、その実現に楽観的な見通しを持ち続けていることにこそ、この「イルカと話す日」という著作の今における真価がある。博士は本書の中で、きわめて科学的=論理的(まるでバルカン人のよう)に、「脳」を手がかりにイルカ・クジラを追及し、人間とのコミュニケーションについて探求している。言い換えれば、そのことはそのまま、人間を追及することであり、生命を追及することでもある。本書の中で博士が繰り広げている異生物と人間(他者と自己)に関する展開は、「イルカ・クジラは賢い」「イルカ・クジラは可愛い」といった簡単な感想を持たせてはくれない。現在巷間を賑わしている、いわゆる「イルカ・ブーム」とは本質的に異なる、より求心的なベクトルが本書の中にはある。我々は自己に対して、また同様に他者に対して、もはや「他力本願」ではいられない。LSDに代表される向精神薬における体験や、野性生物との遭遇、信じられないような自然体験、伝統宗教における身体行、ビジョン・クエストなどのネイティブ・ピープルの儀式などは本来、「自分がこの宇宙の中で決して特別ではなく、他の生命とまったく等しい一つの生命である」ことを知るための技法だったはずである。しかし、そういった体験が逆に「自分は特別である」という思いを強くさせてしまいかねない恐れのある今こそ、こういった一冊が広く読まれることを願う。博士は本書の中で、「人間がついにブレークスルー(限界の打破)を達成し、高度な知性を持つ、地球上の別の生命とコミュニケーションを交わすようになった」近未来を想定している。そのわくわくするような未来は、まさしく全員が勝者のゲームのように思える。イルカ・クジラも、人間も、他のすべての生物も、環境も、精神も、すべてにとって有益な未来のように私には思える。続けて博士は言う、「人間の将来像と、この地球上のサバイバルの可能性については、以上述べたような未来像が、もっとも実現の可能性が高いと著者には思えるのである。こうした構想を持たないかぎり、人間は現在の生き方を改めることができないだろう。人間の科学、技術、社会はますます独善的な傾向を強め、自分以外の生物や、現在の生き方以外の生き方について考えなくなるだろう。人間が空の星に目を向けるようになり、地球上の人間以外の生物に注目するようになれば、視野が広がり、その科学はいっそう充実し、その哲学は、本来の宇宙と調和したものになるだろう。」と。この言葉こそがすべてを語っているように私には思える。地球は決して人間のものなどではないし、イルカ・クジラも人間にとっての海洋資源、観光資源などではない。博士の描く近未来は、生命の輝きに溢れたネオ・アニミズムともいえるような時代なのではないかと、私は思う。(スタジオヴォイスVOL227 1994)
2007年01月15日

●我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか

「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか (D'ou venons-nous? Que Sommes-nous? Ou allons-nous?)」、これはゴーギャンの作品のタイトルだが、今年になって多くの人の、表現こそ違ってはいるが、その核心にこのような意味を含んだ発言を目にすることが多い。この新しいアニミズムオンラインも、同様に、そんな問いから生まれた。

我々はどこから来たのか。

我々は何者か。

我々はどこへ行くのか。 

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ゴーギャンの人生の集大成といわれるこの作品は、他の作品と比べて実に暗く、なんとも重い。画面右から左に、人間の生から死にいたる過程が描かれていて、画面左には、タヒチ神話における絶対の存在である創造神タアロアが描かれている。創造神タアロアは、自分自身の姿に似せて人間を造ったとされているが、その影はクジラまたはホオジロザメのものだといわれている。

クジラ漁の港町で、毎日サメを見ているボクにとっては、なんか意味のありそうな気がしている。今はまだ、それがどういうことなのかはわからないけれど・・。

2007年01月14日

●ゾウ 自己認識力など確認…

ゾウ 自己認識力など確認…」というニュースから。

 巨体ゆえに、ほとんど知能実験がなされていなかったゾウについて、東大大学院人文社会系研究科の入江尚子さん(24)が、独自の研究を進めている。大型類人猿などにしかない自己認識力があることも、世界に先駆けて確認するなど注目される。  入江さんは一昨年夏、100頭以上のアジアゾウが放し飼いになっているタイ東北部・スリン県に2カ月近く滞在し、自己認識力を試す実験をした。2歳のオスにあらかじめ、触れると「ピンポーン」と鳴るおもちゃを見せ、鼻でタッチすればバナナを与え、おもちゃを見ると鼻でタッチするよう訓練した。  次に畳1枚ほどの大きさの鏡を見せた。最初は自分の姿を他のゾウだと思い後ずさりしたが、すぐに鏡の後ろに鼻を回して何もないことを確認した。そこで、ゾウからは見えない頭の上におもちゃを掲げ、鏡越しで見せたところ、鼻を鏡に向けることなく、一発で頭の上に伸ばしておもちゃにタッチした。  鏡に映る姿を自分と認識できる動物は、チンパンジー、ゴリラ、オランウータンなど大型類人猿とイルカだけで、人間の赤ちゃんでも2歳半以上でないと分からないとされている。

あら、そんなことも知らなかったんだ・・・、まったく人間という生きものは・・・。

2007年01月12日

●現在の生き方以外の生き方

昨年の暮れから、止まっていた時間がまた動き出したような気がしている。
失われた12年を取り戻すように、いろいろな場所で、いろいろな人たちが・・・。

ボクは、昨年ブック・カフェ・テトラスクロールでの北山さんのトークライブから、ずっと敬愛するジョン・C・リリィ博士のことを考えている。どう表現したらいいかわからないけれど、「伝説」にしてはいけないことが、ボクたちが経験してきたことにはいっぱいあるように思えるからなのかな・・。


イルカとの異種間コミュニケーションが実現した未来を想定して書いたジョン・C・リリィ博士の言葉から(「イルカと話す日」)。


「人間の将来像と、この地球上でのサバイバルの可能性については、以上述べたような未来像が、最も実現の可能性が高いと著者には思えるのである。こうした構想を持たない限り、人間は現在の生き方を改めることができないだろう。人間の科学、技術、社会はますます独善的な傾向を強め、自分以外の生物や、現在の生き方以外の生き方について考えなくなるだろう。人間が空の星に目を向けるようになり、地球上の人間以外の生物に注目するようになれば、視野が広がり、その科学はいっそう充実し、その哲学は、本来の宇宙と調和したものになるだろう。」

2007年01月09日

●時空のサーファー

ホゼ・アグエイアス「時空のサーファー」から。

銀河スカウトから見ると、僕たち人間はどうしようもない麻薬中毒患者みたいなものなんだ。あらゆる種類の化学製品や人工的な刺激物にハマってる僕たちが代わりに作りだすものといえば、有害な廃棄物ばっかり。銀河スカウト隊員たちは、僕たちが地球の癌細胞だってことに気づいてないことを大笑いしてるよね。放射能、一酸化炭素による大気汚染、癌、エイズ、オゾン層の破壊、殺されるイルカたち、熱帯雨林の消滅、テロリズム、雲量の増加----こういった出来事が実はすべてつながっているということを、僕たちがわかってないのを笑ってるんだ。

こういうぶっ飛んだ本も、時には必要だ。

(元エントリー 「時空のサーファー

2007年01月08日

●自然を思想しているか

今日読んだ「ヤオロズ日本の潜在力」の中の「<対談>鶴岡真弓=月尾嘉男 ケルト文化・アイルランドと日本」から鶴岡真弓さんの言葉を。

 この六〇年の間に、なぜ、日本人が「魂」を失ってしまったのか。それは、自分たちの手で自分たちの表象としての自然、環境を度外視して、西洋の借り物である爪先立った自然観の中で愚直に生きてきた結果です。「物理的に自然環境が変わってしまった」と嘆く前に、自分たちがしっかりと「自然を思想しているか」どうかを自問しなければならないと思います。(鶴岡真弓)
2007年01月07日

●人が持つべき3つのもの

「カイ」の歌い手、ボロット・バイルシェフのインタビュー(雑誌「ソトコト」2003年9月号)から。
(「カイ」は、モンゴルの「ホーミー」やトゥバの「ホーメイ」にように倍音を駆使した、「アルタイ」のシャーマンによって歌い継がれてきた「英雄叙事詩」。)

「カイの歌い手は、人を治療する人、治療師です。歌っているとき、宇宙との繋がりをいつも持っている。」
「私の師匠の言葉ですが、『人間は3つの持つべきものがある。美学、いいものを嗅ぎわける嗅覚、そしてファンタジーだ。ただ、残念ながら3つめのファンタジーは必ずしもみんなが持っていない』と言われました。」

(元エントリー 「人が持つべき3つのもの」)

●「バカジャコ」はダメ、差別語含む魚30種を改名へ

「バカジャコ」はダメ、差別語含む魚30種を改名へ」というニュースから。

 日本魚類学会(松浦啓一会長)は、「バカジャコ」「イザリウオ」など差別的な言葉を含んだ魚の標準和名を改名する。

 見聞きした人を精神的に傷つけたり、不快感を与えたりすることがある上、博物館や水族館などが別名への言い換えをバラバラに行う例も多く、混乱を解消すべきだと判断した。今月中に正式決定する。動植物や昆虫などにも差別語を含んだ標準和名が多いだけに、他学会にも影響を与えそうだ。

(中略)

 同委員会は、「クロメクラウナギ」を「クロヌタウナギ」、「オシザメ」を「チヒロザメ」などとする改名案を作成しており、近く学会の評議員会に提案する。新しい標準和名は学会以外に拘束力はないが、博物館や水族館などにも使用を呼びかける。


テトラスクロールの下の海を泳いでる「ドヂザメ」が、「フチュウイザメ」だったら嫌だな。

2007年01月04日

●だからこそ「ここ」にしっかりと居なくてはいけない。

インターネット黎明期の原稿を紹介したついでに、当時書いたニュアンスの近い文章をもうひとつ。
これは、高城剛氏が始めたパソコン通信「フランキーオンライン」のニューススタンド用に書いた原稿で、これを読んだアメリカ人英語教師の方から、教材に使いたいので英訳させてほしいとオファーがあった。(せっかくなので英訳もアップしておく。)フランキーオンラインは、テキストオンリーだったパソコン通信に、(あらかじめCDでコンテンツを渡しておくことで)グラフィカルなインターフェースを持ち込んだ先進的な取り組みだった。(パソコン通信時代に行われた様々な実験を、今一度整理しておく作業の必要性も感じている。)mixiなどののSNSの登場で、パソコン通信時代の「濃厚さ」が、なんだか妙に懐かしい。

 かぎりなく広く、深く、青い海の中でザトウクジラは歌う。繁殖期の雄によって歌われる「音楽」はいくつかのフレーズで構成されたテーマの組み合わせからなり、6分程度のものから30分を越す大作まである。彼らは僕の知らない何処かの海でその歌をくり返し何時間も、時には一日中歌い続けている。もちろん、この惑星に生きる全てのものたちが何らかのかたちでメロディーを奏で、リズムを刻んでいることを僕は疑わない。鳥も魚も草木も、道ばたの石ひとつだって歌っている。そんなことはあたりまえのことなのだが、ザトウクジラの歌は僕たち人間のそれと非常に近い形態を持つためかよりダイレクトに響いてくる。地球のゴスペルとでもいえるようなその歌は1500Kmから1万Kmもはなれたクジラたちにも届くといわれている。もしかするとアラスカのクジラと南極のクジラは会話をしているのかもしれない。今僕らが手にしはじめた新しいネットワークを考えるうえで、彼らイルカ・クジラたちのネットワークに目を向けることもけっして時間の無駄ではないだろう。かつてジョン・C・リリィはイルカの音声コミュニケーションについての質問に、「私はファクシミリが好きなんです。なぜならファクシミリでの通信は、イルカ同士が行うのと全く同じようなコミュニケーション方法だからです。私の手元にある目に見える一枚の書類と相手の手元に届いたコピーとの間には電話線を通るピーガーという音声があっただけなのです。」と答えたことがあった。たしかに今僕たちの目の前にある新しいネットワークは彼らのそれと随分と似ている。もっとも彼らのバイオ・ソナーと違い、いくらかの投資によるハードウェアと毎月の電話料金が必要ではあるが、それも時代とともに軽くなっていくことだろう。問題はそんなことではない。この星を包みこむようにひろがり続けるネットワークの中で、僕らはこれからどんな歌を歌っていけるのだろうか。国境線など軽く飛びこえたネットワークは、いともかんたんに僕たちを「そこ」や「あそこ」や「あっち」に連れていってくれる。だからこそ「ここ」にしっかりと居なくてはいけない。しっかりと「ここ」に居なければ、この新しいネットワークは僕たちが今一度この星のネイティブとして生きるためのツールにはなってくれないだろう。コヨーテやサボテンや黒曜石のように僕らも時間や距離の束縛から解き放たれて、このネットワークで歌を歌おう。僕らが再びこの地球というバンドの一員になれるように。グレゴリー・ベイトソンがネイティブ、狂人、子供といったテーマを経て、イルカの研究に辿り着いた道のりを、僕らは新しいネットワークを使うことでさかのぼろう。そして、この星のネイティブたちが豆やトウモロコシやジャガイモの成長のために歌いかけるように、ザトウクジラが何処かで生命の歌を歌い続けるように、僕らも新しいネットワークに歌を響かせよう。

Humpback whales singing in the deep and expansive blue ocean. Male humpback whales sing for 6 to 30 min., music that combines different musical phrases to create the dominan theme. They sing sometimes for a few hours, sometimes all day long, somewhere the ocean unknown to us. Of couse I have no doubt all creatures that live on this planet sing the music and keep the rhythm in their own way. Even birds, fishes, trees, plants and stones on the path sing. It is obvious, the song of the humpback whale, so similar to human song, echoes more directly to the human soul. The song, the gospel of the earth, can reach whales from 1,500km to 10,000km apart. Whales may possibly communicate between Alaska to Antrarctic Ocean. It is not a waste of time to examine how whales network with each other when we think about the new human network we have just begun to explore.

When Dr. John C. Lilly renowned authority on dolphin communication was asked about similarities between human and dolphin communication, he responded, " I like fax machines. Because fax machines communicate exactly the same way dolphins do. There is only the sound " pee...gahh.. " on the phone line between the report in my hand and the copy report that comes out the other end. ". He is pointing out the similarity between whales' and facsimile communication. The hot new network in front of us and fax communication are certainly similar to the way whales communicate One difference between then is, unlike the whales' biosonar the network requires expensive hardware and monthly phone payments. But hopefully with time this difference will disappear.

But, that's not the point. The point is what we can sing on the network that keeps spreading and surrounding this planet. The network makes it so easy to skip over borders taking us, over there, faraway and totally to the other side. But in order to tour the world, using the network as natives of this planet, we need to stay where we are.

Let's sing the song. Fell free from time and distance like coyotes, cactus and obsidian. Let's sing the song to be members of the earth's band again. Let's go back, like Gregory Bateson who understanding primitive cultures, insanity and children come to understand dolphins. Let's echo the song across the network, the way the Earth's natives sing to beans, corns and potatoes to help them grow, the way humpback whales sing the song of life.

2007年01月03日

●宇宙朝顔、宇宙猫。

昨日書いた岩田先生について、「オススメの一冊はどれ?」と聞かれることがよくある。

そんなとき、ボクは迷わず、「からだ・こころ・たましい」の最後の部分、と答えている。「からだ・こころ・たましい 宗教の世界を旅する」は、サブタイトルにあるとおり、子供向けに世界の宗教をわかりやすく説いた一冊なのだが、まとめとにあたるあとがきが素晴らしい。そこには「宇宙朝顔」が語られているのだが、長いのでここに引用
することは難しい。そのニュアンスを伝えるのにどうした良いか考えていたところ、工作舎のウェブの「週刊媒体探偵団 079 休日の午後に」に、宇宙○○のエッセンスがとてもよく伝わってくる文章があった。


◎ かつてのはかなげな子猫ももう2歳、ガッシリとしたいかにもオスの茶トラという体つきになったけれど、のどかに眠る猫を見ていると、こちらもなんとなくおだやかな気分になる。そんな折りふと思い出すのは、『草木虫魚の人類学』を読んで興味を惹かれた人類学者・岩田慶治先生の講演会に行った時のこと。その一つはこんなお話だったと思う。先生は、当時ご自宅で飼われていた老猫が静かに眠る姿を見て想像をめぐらせたそうだ。


◎……ここで今眠っている猫が、もしもただの猫ではなくて【宇宙猫】だったとしたらどうだろう。この地球上で生きとし生けるものすべてと結ばれている猫だったら。そうしてこの猫がいずれはかなく死を迎えたら、もちろん家族の一員を失った私たちは悲しいけれど、それだけではないかもしれない。地球上のすべての命あるものたちが、一つの命が失われたことを感知して、自分たちの存在のありようのままに、その死を傷むにちがいない。木々は風にそよいで枝を鳴らし、花はこうべ頭をたれ、鳥は一声をあげ、魚は尾ひれを翻し……。そうしてそのありさまをはるか宇宙から眺めたとしたら、地球上のすべての命の嘆きがきらきらと光を放ち、さながら1個の地球曼荼羅と化して輝くにちがいない……。

これを読んでくれているキミたちすべてが、宇宙○○だと言うことに気づいてくれることが、今、とても大切なのだとボクは思っている。このでは、一年間に3万人以上の人が、自ら命を絶っている。3万以上の宇宙○○が、自ら消えていなくなっている・・・。生き延びるための哲学としても、岩田先生の著作を重ねて薦めたい。冬休みが終わったら、キミの家から一番近い図書館に足を運んでほしい。そして、蔵書カードの束から、岩田先生の著作を探してほしい。幸運にも、そこに岩田先生の著作があったなら、迷わず借りて読んでみてほしい。もし、そこに岩田先生の著作がなかったなら、リクエストカードに書いて司書に渡してほしい。図書館に求められるのは、無駄な蔵書の数ではなく、価値ある本があるということなのだ。そのことを図書館に教えるのはボクたちユーザなのだ。



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からだ・こころ・たましい 宗教の世界を旅する


岩田先生は昨年、第16回南方熊楠賞を受賞し、田辺では記念の講演会も開かれ(嗚呼行きたかったなぁ)、受賞記念の新刊「森林・草原・砂漠―森羅万象とともに」も出版された。近い未来、岩田先生の講演を聴くことも夢ではないかもしれない。

2007年01月02日

●岩田慶治という人を知っていますか

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岩田慶治という素晴らしい人がいる。
あなたは、岩田慶治(いわたけいじ)という人を知っているだろうか?。
(◎→ 岩田慶治 - wikipedia

ボクが「アニミズム」というキーワードを掲げているのも、90年代半ば、インターネット黎明期に、ボクが最初のアニミズムオンラインを始めたのも、「アニミズム時代」をはじめとする岩田慶治先生の著作の影響だ。

もちろん、それ以外にも多くの素晴らしい人や本の影響もある、あるけれど、ちょうどロウソクの芯のように、いつでも中心にあるものが、岩田文化人類学というとわかりやすいだろうか。

一連の素晴らしい業績がもっともっと注目されるべきだと思うし、そうならないことが不思議でならない。このブログでも、折にふれ、紹介していきたいと思っている。

アニミズムオンラインをスタートした頃、雑誌「STUDIO VOICE」に、各界の人々が、(DJが音楽をセレクトして並び替えてひとつの世界を創るように)書物(テキスト)をセレクトし、それを紹介する「テキスト・ジョッキー」特集があって、ボクもそのひとりとして参加したことがある。

その時、ボクが選んだ本は、尾崎一雄「まぼろしの記・虫も樹も」、志村ふくみ「織と文」、そして「アニミズム時代」の三冊。

(編集者によって)「今ここから遙か彼方への旅」と題されたその文章の中で、ボクはこう綴っている。

 根をはる力と繋がっていく力。この二つの力がともに満ち溢れ絶妙のバランスを保った状態、それこそが僕が今求める精神 = 暮らしのスタイルだ。自分の足下にしっかりと根を下ろしつつ、遥か彼方の何者かとリンクしている。庭先の小鳥の声と地球の裏側の出来事がまるで等しく在る状態。

「Think Globaly,Act Localy」なんていう言葉の遥か以前から営々と繰り返されてきたその土地その土地の暮らし。その暮らしから遥か銀河までをも自分として感じられる巨視的な感性

 花巻の詩人・宮沢賢治がイギリス海岸から太古や銀河に繋がっていったように、僕も、今ここから遥か彼方への旅を始めようと思っている。(中略) 

 正直いってしまうと僕は本当にアニミズム時代の到来を待ち望んでいる。復活ではなく到来である。庭先から虫や樹を見つめることも、色以前の色に思いを巡らせることも、僕にとってはすべてアニミズムの風景である。

 僕にとってはエコロジーもニューエイジもなく、すべてはアニミズムの風景なのだ。もちろん共存、共生などといったことでもない。

これを書いてからすでに12年の歳月が経っているが、これを書いた気持ちは、今も変わっていない。
「今ここ」に根をおろしながら、「どこかと」繋がっているという感覚は、きっとこの先の未来に、とても重要とされる「新しい部族」のスタイルの基本形のように思っている。

そして、ボクは最後にこう結んでいる。

見える世界、見えない世界の万物すべてが生命の輝きに満ち溢れている。 森羅万象は僕の中に出現し、僕は森羅万象の中に出現する。それは同時である。

この最後の部分を、新しいアニミズムオンラインのキャプションとしていこうと思う。