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2010年12月01日

●エネルギーの問題の本質がどこにあるのか。

鬼泪山国有林からの山砂採取をめぐる騒ぎにある意味振り回されてきたこの2年間。

昨日、千葉県議会での民主党議員の代表質問に対して(正確な文言は後日議事録がアップされたら・・)採取はしないと断言した。これで、業界団体が、国有林を払い下げ、そこから山砂採取を行いたいという請願が出される前の状態に戻ったことになる。

けれど実際には、まとまった採取地の確保が困難だということが明らかになったことで、かえって乱開発を招くのは想像に難くない。

先日、視察に行った伊豆半島では、天目のウィンドファーム、三筋山の計画地、石廊崎のウィンドファームを見てきた。建設され稼働しているウィンドファームでは、それにより生活が不自然、持続不可能になってしまった方々の痛切な声を聞いてきた。未建設ではあるけどすでに開発が始まっている三筋山の現場では、どう考えても開発などすべき場所でないことをこの目で見てきた。房総に戻って数日後、この三筋山の保安林解除の要請に対して、静岡県知事からNOの意思表示がされた。水源のために保護されているのに、電気のためならそれが解除できるという制度自体が問題だけど、知事が変わったことで、予想外に自然エネルギーによる自然破壊に待ったがかかることになった。


エネルギーの問題の本質がどこにあるのか。

食べものだったらどうだろう。
現代文明は、生活の場と生産の場を切り離し、生活から生産(それ以外も)を見えなくしてきた。
結果、生産の現場は不自然になり、それを知ったボクたち「消費者」は、生産の現場を自然にしようと取り組んできた。
提携、顔の見える生産者からの購入、オーガニックマーケットや地産地消・・・。
生産の現場でも、不自然な生産を変えようと多くの心ある生産者が、自然な食べものを作り、ボクたちに提供してくれる。

ではエネルギーはどうだろう。
石油から原子力にまで拡大した今のエネルギー生産、それが正しいものではないことはわかっている。
自然エネルギーが必要なのは誰だってわかっている。
しかし、その自然エネルギー生産の現場が不自然な状態になっている。
エネルギーの受益者にとっては持続可能なのかもしれないが、生産の場が持続不可能になっている。

もういちど、食べもので考えてみよう。
不自然な食糧生産を正しくさせようと努力しているのは、それまで不自然に生産してきた生産者ではない。
食糧生産の現場に怒り行動を起こした食糧生産のパンクロッカーだ。

エネルギーもそうでなければおかしい。
大手独占の電力システムに中指を突き立ててこその自然エネルギーだ。
ウィンドファーム建設のための風速計が立っていることさえ許せないほど、かけがえのない自然環境と景観を持った三筋山に、エコでクリーンなウィンドファームを建てようとしているのは、東京電力とその子会社だ。

自然エネルギーをボクらの手に取り返さなければ、また同じ事だ。
六ヶ所で起きていること、八ッ場で起きていること、五木で起きていること、三筋山で起きていること、二ツ山で起きていること、それらはすべて同じこと、無関心が招いた悲劇なのだ。

エネルギー中毒からの脱却を決意しなければ、同じことが起こり続ける、今こそのことを真剣に語り合おう。

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