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2010年08月11日

●世界のあり方に疑問を感じたり、異議を唱える。違った視点を提示する。

今年は二年に一度の安房ビエンナーレが開催される。
今回初めて、ビエンナーレのコンセプト文を依頼され、悩みながら書いてみた。

アートの役割は決して手作り一点もの、なんてことではない。

もしアートに役割があるとしたら、

世界のあり方に疑問を感じること、
そしてその世界に異議を唱えること、
さらに、違った視点を提示すること。

だと、ボクは思っている。


安房ビエンナーレによせて

  その昔、 房総半島で暮らす人々は、多様なる自然に身を寄せ、その恵みを享受して生きてきた。

 南北に伸びた房総半島は、三方を大きく海に囲まれている。
黒潮流れる太平洋と東京湾、外房と内房。
まるで違った表情を持つ二つの海が、房総半島の景観の多様性を生みだしている。
 
 同時に、房総半島はそのほとんどが山でもある。鴨川平野や館山平野、平久里川沿いの平野部をのぞけば、平らなところは本当にわずかしかない。
清澄山(383m)から鋸山(329m)へと続く清澄山系と富山(350m)、愛宕山(408m)、嶺岡山(361m)から太平洋へと連なる嶺岡山系の、 房総半島南部に東西に伸びる二つの山列からならる山国(やまぐに)でもある。

 上総夷隅郡長者町に暮らす中村国香が、上総から安房を遊歴し、「里見記」「里見軍記」「義経記」の先行資料を引き比べながら書き残した宝暦十一年の地誌、「房総志料」にはこうある。

一、安房の山は極メて高くして、さかし。然レども、本州より望ムに、独、清澄山のみ見ゆ。其他はみへず。如何となれば、彼土、本州より一帯低ければ也。房総の界、市ヶ坂より彼地方直下見ゆるにて知べし。

 表情の違う海に囲まれ、そのほとんどが急峻な地形であるがゆえに、気温や風雨など、いわゆる気候についても、半島の中でさまざまな違いとなって現れている。「温暖な南房総」と一言でいうには、房総半島の気候はあまりにも多様だ。

 房総半島においては、吹く風もまた実に多様である。
通常、風向は十六方位に分けられている。ネ、ウシ、トラ、ウ、タツ、ミ、ウマ、ヒツジ、サル、トリ、イヌ、イの十二支に、北東=ウシトラ、南東=タツミ、南西=ヒツジサル、北西=イヌイを加えた十六方位だ。このような呼びかたは、「標準語」ともいえるもので、これとは別に、地域ごとに、方言とも言える風の呼び名が存在する。
 南房総市和田町(旧安房郡和田町)では、ナライ(ナレエ)、イナサ(ユナサ)、ベットウ、サガニシ(サガ)、コチ(ゴチ) 、オキモンなどと呼び、 地域に吹く風それぞれを区別してきた。

ナライ(ナレエ)  = 北の風か北寄りの風
イナサ(ユナサ)  = 沖から吹いてくる南東風
ベットウ    = 北西の風か北北西の方向からの強風
サガニシ(サガ)  =  秋から冬にかけて吹く北西の風
コチ(ゴチ)    =  東風
オキモン    = 沖の方から吹く南風

 自然を見誤ることは、時には命に関わることとなり、一方、自然の変化をいち早く察知することは、大きな恵みを獲ることへとつながった。自然界に現れる変化の兆候を察知し、理解し、時には変換して、行動へと繋げること、それこそが、「生きる力」そのものだったであろう。

 現代において、ボクたちアーティストははたして、その「生きる力」を備えているだろうか。

 アーティストの存在意義ってなんだろう。衣食住や安全などと違って、アート、特に現代美術などなくても日々の生活には、なんの支障もない。

 あってもなくても困らないもの、それが現代アートなのだろうか。残念だけど、答えは限りなくイエスに近い、とボクは思う。そう、99%イエスといってもいいかもしれない。
 だけど、1%はノーだ。
 その1%こそ、この地でより良く生きようとした先人たちと、ボクたちアーティストの存在をつなぐものだと信じたい。

 この季節に安房に吹く風、サガニシ。古老の漁師たちは、「イナサ(南東風)から時化てくるが、サガ(北西風)からは時化てこない」という。
 低気圧や台風の進路を、風から読み、近い将来を予測する、「野性的な知性」そのものだ。

 時代が大きく変化していくとき、その変化は静かに始まる。気がついたときには、すでに変化が始まっていて後戻りはできない、そういうものだ。

 だからこそ、アーティストの存在意義がある。

 メタンや一酸化炭素といった窒息ガスや毒ガスがしばしば発生する炭坑では、毒ガス検知のためにカナリアが利用されていたという。 もうずいぶん前になるが宗教団体によるテロ事件の捜査でも、防護服に身を包んだ捜査員が、カナリアの入った鳥かごを手にしているのを見たことがある。
 カナリアという鳥は常にさえずっている、という特徴がある。炭鉱内で毒ガス発生などの異常があると、カナリアの鳴き声が止むので危険を察知できる、というわけだ。

 現代において、アーティストの存在意義があるとしたら、そのひとつは時代の変化を敏感に察知する「炭坑のカナリア」である、ということだろう。
 
 世界のあり方に疑問を感じたり、異議を唱える。違った視点を提示する。
そういう機能を放棄してしまったなら、現代アートなどなくてもいい。

 この季節に北西から安房に吹く風=サガニシ。それは創造の風なのか、破壊の風なのか・・・。
 ボクたちは、古老の漁師のように風を読み、次にとるべき行動を予測できるだろうか。同時代に生きるアーティストとして、きちんと風を読めているかどうか、二年に一度、安房ビエンナーレという場を設けることで、自ら審判していきたい。

(真魚長明)

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