●地元のローカルなレベルで水の問題に取り組むということは
昨日は、いすみでの里山シンポ分科会があった。
イノシシ、キョンなどの(言葉自体はけっして認めたくないけど)害獣の問題も、産廃残土の問題も、山や谷津を生活や生産、さらには祈りの場ではなくしてきたことに由来することを、改めて強く確認させられた。ホントに今こそ、ボクらはボクらが創りあげてきた「現代」という文明を、誰の責任なのかなんていう矮小な議論ではなく、地球に生きる人間全員の問題として検証しなくてはいけない。みんなで、今すぐに。
ネイティブ・アメリカンのなかの伝統派とされる人々は、自然界のなかのいのちあるものすべてが、偉大なる精霊の一部であったり、それとつながりがあるだけでなく、スピリットを持っていると信じています。彼らが、太陽や月、星たち、雨、風、水、地を歩くもの、地を這うもの、空を飛ぶもの、水の中を泳ぐもの、根を生やすもの——それが目に見えようが見えまいが、ありとあらゆるすべてのもの——に向かって祈ったり感謝を捧げたりするのも、そのためです。
北山 耕平「なぜ風をひらくのか」
世界はひとつの水が循環しているひとつの流域であるというのは、ローカルと、またユニバーサルの両方の意味を含んでいます。今まで我々はそのように考えることがありませんでしたが、これはとてもいい考え方ですね。ですから地元のローカルなレベルで水の問題に取り組むということは、同時に世界的なレベルで水の問題に取り組んでいるということにつながっているんです。なぜなら世界はひとつの流域で、そこではすべての水がつながっており、循環しているからです。地元でそのように水の問題に取り組むということは、別に狭い活動ではありませんし、自分たちのことだけを考えているということではないんです。
ゲーリー・スナイダー「聖なる地球のつどいかな」