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2008年03月18日

●抵抗としての歩き、そして瞑想としての歩き。

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今朝は、今週木曜日の安房ハイキングクラブのハイクに備えて、富山(とみやま)の伊予ガ岳に登った。
安房の妙義山と言われ、千葉県で唯一、「岳」を名に冠する伊予ガ岳は、阿波斉部氏のふるさと、四国の最高峰石鎚山の別名「伊予の大岳」に山名を由来する、ここ安房でも際だった存在の山だ。
鴨川北部の里山からも、その特徴的な姿が目を引く。
頂上の鎖場もこの辺の山では珍しく、機会があったら一度は登ってみてほしい。

安房ハイキングクラブ会報誌「あしあと」に寄せた文章を。


安房ハイキングクラブ発足にあたって      真魚 長明


 今から5年前のある原稿にボクはこんなことを書いている。


 東京を離れ田舎で暮らしはじめて驚いたのは、人がまるで歩かないことだった。歩いている人を見かけることがほとんどない、歩いているのを見かけるとかならず老人か子供だ。自動車に乗る資格を持つ人間は歩かない、自転車にさえ乗らない。書店やスーパーの駐車場でも数メートル歩くのを惜しんで店の前に乗りつける、そこが駐車スペースではないにもかかわらず。
 ボクだって自動車に乗る。ロングボードを持って歩いて海へ行くのは不可能だ。日帰りで新潟や長野にスノーボーディングに行けるのも、モータリゼーションあってこそのことだ。だからこそ、ボクは歩く、そして自転車に乗る。距離や荷物が許す限りそうしている。
 歩くことは、動物としての自分が本来移動できるスピードを思い出させてくれる。その身体感覚を忘れてはいけない、しっかりと身体の中に確固たる感覚として焼きつけなくてはいけない。すべてはその身体感覚から始まる・・・・、歩いて、自転車で、スプートニクで・・・。


 少しばかり恥ずかしさもあるが、これを書いた思いは今も変わらない。いや、かえって強くなっている。六ヶ所村再処理工場に代表される核の問題、ピークオイルなどで考えざるを得ないエネルギーの問題、そうした問題すべての根源にあるボクたちの文明のこと。今、ボクたちが「歩く」ことには、5年前より大きな意味があるよう思う。一歩一歩歩くことは、ビルマの僧侶がそうしたのと同じように、「抵抗運動」なのだ。そしてまた、歩くことは同時に、内省的で瞑想的な時間をも与えてくれる。一歩一歩ただ歩く。ウォーキング・メディテーションを提唱するティク・ナット・ハン師はこう言っている。「ふだんの生活の中でわたしたちはいつも駆り立てられているように感じています。せきたてられ、急がねばと思います。そのくせ、そんなに急いでどこへ行くのかと自分に問うことはめったにありません。歩く瞑想はふつう戸外で行いますがいつまでにどこへ行くといった目標はいっさいありません。歩く瞑想の目的は歩く瞑想そのものだからです。重要なのはどこかへ行くことではなく歩くことそれ自体です。」



 抵抗としての歩き、そして瞑想としての歩き。安房の低い山々はこの二つの歩きに最適だろう。そのことに気づいたら・・・、さあ、今すぐ歩きだそう!。

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