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2008年02月01日

●人間はどんなにあがいても動物の一種であることをやめることはできない

昨日は千倉の小学校で催された小澤俊夫先生の講演会に行ってきた。
こういう素晴らしい人がいることを、ボクはとても嬉しく思う。

忘れられない言葉があった。
「魂の安定が大事。魂が安定していれば知恵なんて自然についてきますよ。」
なんて懐の深い言葉だろう。
教育とはきっとそういうものなんだろう。
正直、グッときた。


反対に、気になることもあった。
語り、口伝え、口承。
書かれた文字ではなく、口から耳へ伝えることの大切さを小澤俊夫先生は語っているのに、会場を埋める多くの(地域)の教育者たちがノートをとる(文字化する)ことに夢中で、ほとんど視線をあげない、話している人の顔を見ようとしないのだ。ボクは小さい頃、「話している人の顔を見なさい」と教わってきたが、今、教育の現場にいる人たちはどうやらそう教わってはこなかったようだ。人の話をきちんと聞けない人から話を聞かなくてはいけない子どもたちはたまらない。可哀想だ。文字にした途端、なくなってしまうものがある、そのことを知らなければいけない。どんなにきれいにノートを作っても、そこにあるのは抜け殻なのだ。


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人間は文明を進歩させることによって、かつては不治の病とされた病気を治す方法を考えだしたし、遠い距離を短い時間で克服する方法も考えだした。それはたしかに人間に幸福をもたらしている。しかしそれは他面では、人間は動物界や植物界、自然界と断交しても生きていかれるのだという錯覚を生みだしている。すでに述べたように、人間も動物の一種なのだという事実を忘れさせる危険性をもっている。もちろんわたしは、人間と動物の結婚が自然でよろしいなどと狂気じみたことを言っているのではない。そうではなくて、人間がその知識のみに頼って生き、あらゆるものを制御できると考えることは危険であり、人間はどんなにあがいても動物の一種であることをやめることはできないことを知らなくてはならないと言いたいまでである。近代科学がいかに進歩しても、いや進歩すればするほどそのバランスとして、人間が大昔から考えていた哲学、という言い方が大げさならば、人間がきびしい自然のなかで生きるためにどうしてももたなくてはならなかった自然観、動物観といったものを、しっかり思いのなかに呼びおこすことが必要だと思う。民衆のなかでひっそり口伝えされてきた民話がそれを思い出させてくれるのである。このことを、共産党支配の時代にソ連の民話研究の代表的存在のひとりであったキリル・ヴェ・チストフは、いみじくもこう言っている。
「有名な格言を言いかえてこういうことができよう ーー 『人は民話のみによって生くるにあらず』と。だがパンによって生きる力を失うのが危険であるのと同様に民話の伝統を喪失することも危険であろう_と。

小澤俊夫「昔話のコスモロジー―ひとと動物との婚姻譚 (講談社学術文庫)

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