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2008年02月29日

●虫も樹も



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虫も樹も by TETRASCROLL




2008年02月25日

●溶融炉の底に金属(白金族元素)がたまる

原稿の締め切りも、こんな風にちょっとずつずらせたらいいのに。(「東奥日報」の記事から。)

六ケ所再処理 本格操業5月以降に

 日本原燃が、今月中を予定していた六ケ所再処理工場の完工時期(本格操業開始)を五月に延期する方針を固めたことが二十四日、分かった。近く正式発表する見通し。アクティブ試験(試運転)第四ステップで実施したガラス固化体(高レベル放射性廃棄物)製造試験で、溶融炉の底に金属(白金族元素)がたまる不具合が起こったことなどが響いた。

2008年02月24日

●「核分裂過程 再処理工場を止めた人々」上映会のお知らせ

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3月のテトラシアターは、「核分裂過程 再処理工場を止めた人々」です。
地域初上映のため、混雑が予想されます。お申し込みはお早めにどうぞ。
(theater@tetrascroll.info まで)

 ヴァッカースドルフはドイツ南部バイエルン州にある緑豊かな小さな村。
 1985年、この地が原発から排出される使用済み核燃料の再処理工場予定地とされた。森の木々が根こそぎ伐採されると、4万人もの人々が反対デモに集まって来た。チェルノブイリ原発事故による放射能汚染の影響を受けて、反対運動が広がる。ドイツ連邦政府と州政府はこれに対して武力で対抗した。放水車からは高圧の水が、そしてガス弾までも発射された。
 ヴァッカースドルフは元々、キリスト教社会同盟(CSU)の支持者が多い保守的な土地柄だった。しかし村に再処理工場の話が持ち込まれ、大多数の住民の声を無視して建設が強引に進められていく中で、住民たちの意識は大きく変わっていく。
 教会の牧師、農民、教師、主婦、医者、機械工・・・様々な住民たちが自らの言葉で語り始める。
 建設を進めるためには法律も変え、反対する人々には武力で対峙する「民主主義」とは?そうまでして進める核燃料再処理工場とは、何なのだろう?
 ドイツ各地から集まってくる支援者たち。新しい人々との交流の中で闘いは豊かで、創意あふれたものになっていく。闘う人たちの表情は弾圧の中でも清新だ。

   映画が完成した2年後、ヴァッカースドルフ再処理工場の建設は中止された。そしてこれを境に、ドイツは脱原発の方向へ歩み始めた。
2008年02月22日

●「前をよく見ていなかった」

目を疑う、こんなニュースが。

衝突:イージス艦事故で千葉入りの防衛相の車、乗用車と 

 石破茂防衛相を乗せた公用車が21日午後3時35分ごろ、勝浦市墨名の国道128号交差点で、市内の無職女性(30)の乗用車と正面衝突し、両車両の一部が破損した。公用車に4人、乗用車に2人が乗っていたが、けが人はなかった。石破防衛相はイージス艦と漁船の衝突事故の説明で新勝浦市漁協川津支所に向かう途中で、到着が約20分遅れた。

 県警勝浦署によると、直進の乗用車に対向車線を右折した公用車が衝突したらしい。運転していた海上自衛隊職員(30)は「先導車に離されてはいけないと思い、前をよく見ていなかった」と話しているという。【山本太一】

毎日新聞 2008年2月21日 20時05分


ああ。「コミック雑誌なんかいらない」や。

2008年02月19日

●テトラファームもしくはテトラ農園

今日は朝から畑仕事。
黙々と作業する時間は、自分の内側を見つめる大切な時間でもある。
BND麦の麦踏みもこれで三回目。順調に生育してくれている。
ジャガイモの植え付けなどをしていると、季節を少し先取りした気分になる。
これもちょっと幸せ。

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→ 11月24日は、Buy Nothing Day、何も買わない日。

→ BND麦の発芽


午後は、
鴨川郷土資料館「伊八とその時代」展、千倉のシーレ「エドワード・レビンソン写真展 Heartgraphy」、安房博物館「アワビー食と美ー」をはしご。

伊八の作と推定される「大山寺倶利伽羅竜」は圧巻、機会があれば一度見てほしい。

レビンソンさんのピンホール写真も素晴らしかった。ボクもピンホール写真を撮ることがあるけれど、あんな写真は絶対に撮れない。サーフィンが心の状態であるのと同じく、ピンホール写真も心の状態を写すものなんだろう。
生活や心が波立っていては、こういう写真は撮れないのだ。会期は残りわずかだが、お近くの方はこれも是非。


ocean moonrise (c) Edward Levinson

2008年02月16日

●工業とはなにか、経済とはなにか

二年前の今日、2月16日のブログに、ボクはこんなことを書いている(「京都議定書の発効から今日で1年」)。

2005年2月16日の京都議定書の発効から、今日で1年となる。
それをテーマにした朝日新聞の広告特集「千年の再生」が、ちょっと面白かった。
中沢新一氏の「考え、そして行動してみる」がとても良かったので、少し長いけれどここに一部を引用しておく。

 いま、社会のシステムから外れてしまった一部の若者たちは「ニート」と呼ばれ、その問題点ばかりがクローズアップされていますが、彼らはちゃんと現代の社会システムに疑問を感じている。そのマイナスの価値だけをとらえてしまうのはものすごい損失です。
 では、どうすれば彼らに気づかせることができるかというと、神話を読ませるのがいいと思う。世界各地の、少数民族が語り継いできた後世に手の入れられていないもの。その背後にあるのは、いまの科学が伝達できないような、人間と動物、人間と自然の関係性についての哲学です。そこでは、人間と自然が一体であった時代が語られているんですね。動物が言葉を話すこともあれば、人間と結婚したりもする。それを知ると、いままでの認識がガラッと変わります。
 そこを出発点にすると、工業とはなにか、経済とはなにかというのが、違って見えてくるはずです。現代人は、なかなかこの認識を受け入れられないんですよ。はじめから自然は語らないもの、沈黙しているものと思いこんでいるわけですから。

そう、そうなんだよね。

そう、そう。

2008年02月15日

●ミャンマーの少数民族武装組織トップが暗殺される

 先日、築地本願寺で、「ビルマ、パゴダの影で」の先行上映を見て、監督のアイリーヌ・マーティー、ビルマ近現代史が専門の根本敬教授、そして在日ビルマ人カレン民族の女性の話を聞く貴重な機会を得た。映画「ビルマ、パゴダの影で」に関しては書かなくてはいけないことがいっぱいあるので、別の機会にきちんと書きたいが、そこで知ったことは、(またしても)ボクたちがホントに何も「知らない」ということだ。ビルマの軍事政権が国内の少数民族に何をしているのか、正直ボクもまるで知らなかった。(3/15から公開される「ビルマ、パゴダの影で」は是非見てほしい。)

そして、このニュース。

ミャンマーの少数民族武装組織トップが暗殺される

  【バンコク=田原徳容】ミャンマー少数民族カレン族の自治権を求め、同国軍事政権への抵抗を続けるカレン民族同盟(KNU)トップのマン・シャ書記長(65)が14日、タイ北部メソトの自宅前で暗殺された。  同書記長は、軍政が9日に発表した新憲法案の是非を問う国民投票と総選挙の実施に反対の意思を示したばかりで、タイ警察は、KNUから軍政側へ離反した者による犯行の可能性が高いとみて捜査を進める。  警察によると、男2人が同書記長宅を訪問。外に出てきた同書記長にカレン語であいさつした後、拳銃を3発発砲し、トラックで逃走した。同書記長は妻子とメソトに住み、ミャンマーとタイを行き来していたという。  KNUは、ミャンマー国内最大規模の反政府武装グループとして、軍政との間で武装闘争を展開してきたが、近年は軍政側への投降が目立ち、実質最高指導者のボー・ミャ氏が2006年に病死するなど勢力が弱体化しているとされる。
- 読売新聞


パキスタンのブット元首相暗殺に対しての、いとうせいこうさんのコメント(readymade by いとうせいこう)をもう一度。

アジアは現在、あまりに暴力的に混乱し過ぎている。
2008年02月11日

●重要なのはどこかへ行くことではなく歩くことそれ自体です。

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今日は、二回目の安房ハイキングクラブ。
いつも海から見ている山を仲間たちと歩いた。
不動山、上の台、浅間山。
100メートルあまりの低い山だが、海から一気に切り立っているので景色は申し分がない。
ピークにはどこも小さな祠や、立派な社があり、暮らしと祈りが分離せずに一体となっていた一つ前の生き方の最後のカタチのようなものを見る貴重な体験でもある。

歩きながら、今から5年前に、安房の観音霊場を歩いたことを思い出した。

当時のウェブ・ダイアリ−には、こうある。


2002年03月28日(旧暦2月15日)

安房国札三十四カ所観音霊場巡礼の結願を無事に迎えた。安房国札三十四カ所観音霊場は、館山、富浦、鋸南、富山、三芳、鴨川、和田、丸山、千倉にひろがる37の札所(34+番外3)からなり、6年に一度、丑歳と午歳に開帳されている。普段はひっそりと佇んでいる小さなお堂が、6年に一度、いきいきとした祈りの場として賑わいを見せる。今回、初めて37の札所をまわってみて、まわりはじめる前は思いもしなかったようなことが見えてきて、考えさせられることも多くあった。

菜の花が咲き、桜が咲き、蝶々が飛び、蛙が鳴いている。田んぼでは田植えの準備が忙しくすすめられている。典型的な日本の農村、里山の風景だ。小さなお堂に幟(のぼり)が立ち並び、人々が参拝に向かっている。鳶がくるくると飛び回り、猫が日向ぼっこしている。この風景はきっと、ずっとずっと昔から連綿と続いてきた暮らしの風景の一部なんだろうと思った。6年前も12年前も、そのずっとずっと前も、きっとほとんど同じ風景が展開されていたんだろう。では6年後は?、12年後は?、そのずっとずっと後は?。その答えは、ボクたちにかかっている。

 ほとんどのお堂は住職も不在で、普段はそこにあることさえ自ら隠しているかのようにひっそりと佇んでいる。こんなところにこんなお堂があったんだ、と、驚かされたことも少なくない。そんなお堂に毎日毎日たくさんの人が訪れている。その参拝者たちを暖かく迎え、納経所や湯茶の接待など様々なこと一切を行っているのは、地域のボランティアたちだ。各札所それぞれが、本当に手厚く迎えてくれる。未来へ向けての地域のあり方みたいなもののヒントが、ここにはあるのではないかとボクは思った。バリ島などでの、生産者=宗教者=芸術家といった分業化しないホリスティックな生き方と同じ生き方がここにもあり、その人々が支える地域の中心としてのお堂=札所をネットワーク化する観音霊場巡礼という、より大きな地域ネットワークがさらに広がりをもって展開していく。(そしてさらに大きな板東観音巡礼へと展開していく。)大きな神社仏閣の荘厳さはそれはそれで素晴らしいもので、決して小さなお堂が数多く集まってもその荘厳さは演出しようもない。でもそれとは別に、小さなお堂、それを支える善意のボランティア、そしてそれらが一体となってつくるネットワークに、あえていうならUNIX的な意味での未来性をボクは感じてしまう。「地域通貨」や「仏教経済学」を持ち出すまでもなく、ここには何か未来への大きなヒントがあるように思えてならない。



「道徳心の促しに従う欲求があり、仲間にサービスする欲求があり、創造的な生産をする欲求がある。だから、なにかをしたいときわれわれは報酬を期待しない。」

E・F・シューマッハー「スモールイズビューティフル再論」


歩くことは、時には抵抗にもなる。
また時には、内省的で瞑想的な行いにもなる。

きっと、ボクたちは、人類史上最も歩かない時代を生きているのだろう。
今、歩くことを考えることで、いろんなことのきっかけになるのかもしれない。

ティク・ナット・ハン師はこう言っている。

ふだんの生活の中で わたしたちはいつも駆り立てられているように感じています。 せきたてられ、急がねばと思います。 そのくせ、そんなに急いでどこへ行くのかと 自分に問うことはめったにありません。 歩く瞑想はふつう戸外で行いますが いつまでにどこへ行くといった目標はいっさいありません。 歩く瞑想の目的は 歩く瞑想そのものだからです。 重要なのはどこかへ行くことではなく 歩くことそれ自体です。


ティク・ナット・ハン「ウォーキング・メディテーション


歩こう!。
歩こう!。
もっと歩こう!。

2008年02月05日

●あなたが狂っているか否かの判断基準

 今日は朝から、田んぼ仕事。
今まで畑仕事はしてきたけれど、稲作には訳のわからない抵抗感があった。
もちろん知人の手伝いで田植えや稲刈りはしてきたが、自分が主体となっての田んぼはこれが初めてだ。

今日思ったことをひとつだけ。
鳥や虫といった生きものが、いっぱいいる。
理由もなく満たされた気持ちになる。
とても不思議な感覚。

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 人間が自然を知ることができる、知ったというときの意味は、人間が大自然の本体が何であるかを真に知り、知り得たのではない。「単に人間が知り得る」自然を知ったに過ぎない。それでも科学者は、人間の思考力の客観性が間違いでなかったことを、空に飛行機が飛び、地に自動車が走る現代文明の現実の姿が立証しているではないかと説く。
 しかし、この「現代文明」というものをよく見直してみて、それが狂っているとすればそれを狂わせた人智も狂っていたということになるはずである。現代を狂っていると見るか否かは、あなたが狂っているか否かの判断基準となるだろう。
 
「一億総五反百姓のすすめ」福岡正信

●計画が大きく前進するはずだった

週刊東洋経済の記事より。


最終試験が続く核燃料再処理施設の完成が延期となる見込みだ。「もんじゅ」再開も控えた今年はサイクル計画が大きく前進するはずだったが、その目算は最初から狂った。

(週刊東洋経済2月9日号より)

週刊東洋経済TKプラスにはさらにこうある。


 プルサーマル計画の実行を担う電力業界は、10年度までに16〜18基の原子炉に導入する方針を掲げてきた。九州電力や四国電力など地元了解を得て前進する会社もあるが、業界盟主の東京電力は完全停止に追い込まれた柏崎刈羽原発の復旧が最優先で、もはや先導役どころではない。
 
 さらに言えば、六ヶ所村の再処理施設が完成しても年間処理能力は最大800トン。全電力会社が年間に排出する使用済燃料は約1000トンとこれを上回る。原燃は自身の貯蔵施設で約2400トンの使用済燃料を受け入れているが、全国の発電所プールには合計約1・2万トンもの使用済燃料が再処理を待つ状態にある。
 
 そうした状況を尻目に全国の原発は稼働し続ける。少しでも歯車を動かさなければ、サイクルの輪から使用済燃料があふれ返ってしまう。東電と日本原子力発電は共同で新会社「リサイクル燃料貯蔵」を設立し、使用済燃料を一時ストックする「中間貯蔵施設」の建設を青森県むつ市で計画している。これなどは、サイクル計画遅延の歪みを取り繕おうとする最たる例だ。


一つの嘘を取り繕うために新たな嘘をつく。
その嘘を取り繕おうと、また新たな嘘をつく。
そんなことをくり返していくと、
子どもが「うちのお父さん総理大臣なんだよ」というようなことになる。

2008年02月01日

●人間はどんなにあがいても動物の一種であることをやめることはできない

昨日は千倉の小学校で催された小澤俊夫先生の講演会に行ってきた。
こういう素晴らしい人がいることを、ボクはとても嬉しく思う。

忘れられない言葉があった。
「魂の安定が大事。魂が安定していれば知恵なんて自然についてきますよ。」
なんて懐の深い言葉だろう。
教育とはきっとそういうものなんだろう。
正直、グッときた。


反対に、気になることもあった。
語り、口伝え、口承。
書かれた文字ではなく、口から耳へ伝えることの大切さを小澤俊夫先生は語っているのに、会場を埋める多くの(地域)の教育者たちがノートをとる(文字化する)ことに夢中で、ほとんど視線をあげない、話している人の顔を見ようとしないのだ。ボクは小さい頃、「話している人の顔を見なさい」と教わってきたが、今、教育の現場にいる人たちはどうやらそう教わってはこなかったようだ。人の話をきちんと聞けない人から話を聞かなくてはいけない子どもたちはたまらない。可哀想だ。文字にした途端、なくなってしまうものがある、そのことを知らなければいけない。どんなにきれいにノートを作っても、そこにあるのは抜け殻なのだ。


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人間は文明を進歩させることによって、かつては不治の病とされた病気を治す方法を考えだしたし、遠い距離を短い時間で克服する方法も考えだした。それはたしかに人間に幸福をもたらしている。しかしそれは他面では、人間は動物界や植物界、自然界と断交しても生きていかれるのだという錯覚を生みだしている。すでに述べたように、人間も動物の一種なのだという事実を忘れさせる危険性をもっている。もちろんわたしは、人間と動物の結婚が自然でよろしいなどと狂気じみたことを言っているのではない。そうではなくて、人間がその知識のみに頼って生き、あらゆるものを制御できると考えることは危険であり、人間はどんなにあがいても動物の一種であることをやめることはできないことを知らなくてはならないと言いたいまでである。近代科学がいかに進歩しても、いや進歩すればするほどそのバランスとして、人間が大昔から考えていた哲学、という言い方が大げさならば、人間がきびしい自然のなかで生きるためにどうしてももたなくてはならなかった自然観、動物観といったものを、しっかり思いのなかに呼びおこすことが必要だと思う。民衆のなかでひっそり口伝えされてきた民話がそれを思い出させてくれるのである。このことを、共産党支配の時代にソ連の民話研究の代表的存在のひとりであったキリル・ヴェ・チストフは、いみじくもこう言っている。
「有名な格言を言いかえてこういうことができよう ーー 『人は民話のみによって生くるにあらず』と。だがパンによって生きる力を失うのが危険であるのと同様に民話の伝統を喪失することも危険であろう_と。

小澤俊夫「昔話のコスモロジー―ひとと動物との婚姻譚 (講談社学術文庫)