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2007年08月02日

●核という技術は、重層的な差別のうえに成り立っている。

「電気を止める子どもたち」プロジェクトのために、ボクも再び「核」についての勉強をしている。日本が今どうなっているかを知るためにオススメの一冊「核大国化する日本 平和利用と核武装論 (平凡社新書)」から。

 たいていの大規模開発は差別のうえに進められるものだが、核開発はその典型だ。
 米国、英国、フランスが核実験を行ったのは先住民の土地や、太平洋の島々や、植民地支配していたアフリカの砂漠である。これは社会主義国家も同様で、ソ連や中国も国内の少数民族が暮らす土地で核実験を遂行した。
 核燃料サイクルの工程のうち、再処理と並んで被爆や環境汚染のリスクが高いのはウラン採鉱だが、その害を被っている大半は先住民だ。というのも、例えば北米やオーストラリアの場合、入植者たちは肥沃な土地を先住民から奪いとり、彼らを辺境の地に押し込めたが、後年、そこでウラン鉱床が発見されたからである。採鉱に従事してきたのも、多くは先住民だ。
 核を利用している国々は、どこも例外なく、放射性廃棄物の処分場、原子力発電所、再処理工場・・・といった核施設を、都市から遠く離れた場所に設置している。安全であれば、必ずしも遠隔地につくらなくともよいはずだ。
 このように核という技術は、重層的な差別のうえに成り立っている。この本では言及しないが、これこそが核問題の根底をなす点である。

鈴木真奈美「核大国化する日本 平和利用と核武装論


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