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2007年05月29日

●波に自分を明け渡し、波そのものになること

今朝はたっぷりと、サーフィン。コンディションも良く、気分は爽快。波に捕まろうが、つぶされようが、心地よさに変わりはない。

 さあ、仕事は後まわしにして、海へ行こうよ。


 すでにお気づきのように、サーフィンの第一歩はまず波に自分自身を明け渡し、波になることである。このプロセスを経て波そのものにならない限り、波を隅々まで探求して、自由自在に操ることなどできはしない。これはサーフィンばかりか、さまざまなタイプの変性意識状態の体験にもそのままいえることである。

波に自分を明け渡し、波そのものになること 吉福伸逸「処女航海―変性意識の海原を行く

2007年05月27日

●エゴのない状態で波と一緒になる

 テトラスクロールから歩いて海に行くようになって何日か経つ。新しいサーフポイントに順応するには、少しばかり時間がかかる。地形や砂の状態、河の位置など、サーフポイント特有の癖があり、頭で理解していても、身体が無条件に反応できるようになるまでの時間が必要になる。引っ越しをして、新しい土地に身体が順応するのに時間がかかるのと、おなじようなものかもしれない。トライ&エラー、これはこれでなかなかに楽しい時間なのだ。


 うまく波に乗るとか、あるいはテクニックを駆使するという、いわゆるスポーツ競技としてのサーフィンは、やがて飽きてしまいますよ。そうではなく、エゴのない状態で波と一緒になる、その時に感じられる自分や、その自分と自然の関係・・・そういうことを本当に理解したくて、ボクはサーフィンを続けているんです。

アロハを捧げる場所 ジェリー・ロペス「伝説のハワイ

2007年05月22日

●仕事それ自体の中に、遊びそれ自体の中に、

 今までは、朝起きて海へ行き、朝食をとって、テトラスクロールへ行っていたが、最近では、朝起きてテトラスクロールへ行き、そこから歩いて海へ行くようになった。

 新しいホームポイントへ身体が順応するには少し時間がかかりそうだけれど、このスタイルもなかなかいい。

 歳のせいなのかもしれないが、睡眠時間は4~5時間くらいだろうか。ひとには、忙しすぎだといわれるが、どうしてなのか、本人にはそんな気がまったくない。ゆっくり東北の温泉にでも行きたいとも思うが、今はまだいいかな。



 このごろ、リラックスの重要さを説く人が多くなってきたけれども、休息は仕事をする準備のために休むとか、仕事をしたから疲労回復のために休むとかのように、仕事に対立する概念としてとらえるのは本質的に不十分である。

    仕事それ自体の中に、遊びそれ自体の中に、
    眠りそれ自体の中に休むということがなければ、
    仕事も遊びも眠りも成立しない。

 リラックスは人間にとって最も重要な概念であり、感覚であり、技術であるといえよう。(ここでは「休む」ということばを、力を抜く、緊張を解く、ほんのわずかでも緊張することのない、よくほぐれている、という意味を持たせて使った。)

野口三千三 「原初生命体としての人間
2007年05月20日

●その日のうちに落ちる花のように

 朝、テトラスクロールに、花びらを並べる。
 一枚、一枚、敷居にそって並べていく。
 丁寧に、丁寧に、花びらに意識を集中して並べていく。


 20年ほど前だろうか、始めてのバリで見た、祈りの花の美しさが、今も忘れられない。

 花で知られる南房総だが、美しい花のあしらいを見ることは滅多にない。

 きっとそこには、何かが欠けているのだ。


 それは、たぶん、「祈り」だろう。

 朝、バナナの葉に盛りつけた供物をそなえる時も、寺院で祈る時も、バリ島の人たちは必ず両手の指さきに花びらをはさんで合掌する。シヴァ神に、ヴィシュヌー神に、先祖たちに、それぞれ赤や黄や白の花を使いわけて祈るのだ。祭や儀式の時は、いっせいに合掌する人々の指さきで、無数の蝶が舞っているように見える。それは私の知るかぎり、世界中でバリ島にしかない祈りの作法である。その日のうちに落ちる花のように人は生を享けて、苦しみ、悲しみ、喜び、考え、意識し、願い、そんな営みすべてを花のように顕現させ散っていくだけなのか。バリ島の人たちの指さきの花は、ぞくぞくするほどなまめかしく、きよらかで、私の眼には世界で最も美しいものの一つに映る。

この、花一輪がなければ 宮内勝典「バリ島の日々
2007年05月19日

●トマトが「いいよ」といったときに

 雨が降る前にと思い、今朝は、早くからワタ畑の種まきをした。昨年は早い種まきを心がけ、その「読み」通り、過去最高の出来となった。今年のボクの「読み」は種まきを遅くすること。旧暦だったり、直感だったり、天気図だったり、いろんな要素から、今年の長い時間の気象・温度を読んで、それに向けて計画をたてる。必ず当たるわけではないけれど、確率は悪くないように思う。サーファーが天気図とともに暮らすように、ファーマーもまたそうあるべきだ。「野性の思考」とまではいかないが、忘れてしまった何かがそこにあるようにボクは思っている。


 言いかえれば、「土いじりに精を出す」といっても人によって千差万別だということである。わたしが初心者にすすめたいのは、毎日数分でもいいから土の上にしゃがみ込んで、植物の生長を見守ることだ。こうした行為は、まちがいなく人間にスピードを落とすことを教えてくれる。これからは、トマトが「いいよ」といったときにトマトを食べることを学ぼう。わたしの見るかぎり、どんな作物を手がけてもいちばんの知恵は根気だが、人間にとってそれを実践するのが最大の難関かもしれない。前著「イルカの夢時間」にはこう書いた。


    これは「観察」ではなく、「参加」の関係といえる。
    あらゆる静的なものとあらゆる動的なもののちがいはそこにある。



畑の隣人 ジム・ノルマン「地球は人間のものではない」」

2007年05月18日

●うかつ者であってはならない

私達百姓は、都会人に自然美を指摘されて始めて気の付くようなうかつ者であってはならない。

坂本直行 「開墾の記

 1993年の11月に移住して来てから初めて、車のない暮らしをおくっている。正直なところ、この地域で車を持たずに暮らすのは不可能だろう。あと何日続くのかわからないが、今はこの暮らしを楽しみたいと思う。

 「移住」と言う言葉を、ボクらは良く使う。「移住組」と言ったり、言われたりする。自分がどこどこ出身というのは一生消えることのない事実だ。そして移住してきたことも、これもまた紛れもない事実だ。

 だけど、15年も暮らし続けた場所は、今暮らしている場所だけだ。生まれ育った家と同じくらいの時間を、ボクは今の家で過ごしてきたし、また、この先だって暮らしていくのだろう。

 ボクの気分では、「移住」よりも「再定住(reinhabitation)、「住みなおし」と言ってもいいかもしれない。15年も房総に住んでいたら、もちろんもう都会人ではいられない。けれどまた、どうあがいても土地の人にもなれない。

 そんなボクらを総称するなんか素敵な呼び名があればいいなぁ。

2007年05月15日

●この土地では、一年中が春の季節。

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 ちょうど半年前、このスペース、テトラスクロールを「オープン」させた。
準備に二ヶ月、友人の手助けと、つたない大工仕事で、戦中の古民家は、新しい意味を持った場所に変身した。最低限の準備ができたとき、さあ、いつ「オープン」させようか、そう思った。これは物理的な問題ではなく、心の問題だった。


In this land, it is always spring.

この土地では、一年中が春の季節。


一冊の本の、11月15日の頁に書かれていた言葉を見て、ボクは気持ちを決めた。
テトラスクロールは11月15日を開店の日にしようと。


あれからちょうど6ヵ月がたった。
同じ本の、今日の頁にはこうある。


The sun bathes me in its perfect warmth.

太陽は完ぺきな暖かさでわたしを包む。

 今日から、テトラスクロールは第二期に入る、詳細は追って。

2007年05月14日

●すべてが簡素で、明朗なものでありたいと思う

敬愛する猪谷六合雄さんの言葉。

「私は、山小屋の狙う感じは、すべてが簡素で、明朗なものでありたいと思う。」

そして、バッキーの言葉。

「Do more with less.(すくないもので、より多く)」

さらに、ミース・ファン・デル・ローエの言葉。

「Less is more.」


テトラスクロールも自分の暮らしも、今はそうありたいと強く思う。

2007年05月13日

●石の人の話すことに

 朝、いつものようにRSSリーダーを眺めていて、ちょっとビックリすることがあった。

 尊敬する語り部、北山さんの「Native Heart」の記事のタイトルが「石の人の話すことに耳を傾けてごらん」だったから。


 実は今日、テトラスクロールのギャラリー企画第一弾の打ち合わせで須田郡司さんとお会いした。細かい打ち合わせも終わり、やっと発表できる。

 テトラスクロール・ギャラリー企画第一弾
 「VOICE OF STONE - 聖なる石に出会う旅(仮題)」6/8 - 6/21
  関連イベント 「石の語り部〜日本石巡礼」(スライドトーク)6/16 17:30~

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須田郡司さんを初めて知ったのは、もう17、8年前になるだろうか、ブッククラブ回で見つけた「フォトダマ通信」に驚き、思わず購入した時だ。当時はボクも東北地方などに出かけては、様々なイワクラや巨石遺構、縄文の遺跡などを巡っていたので、妙なシンパシーを抱いたのをよく覚えている。あれからずいぶん時間が経ったけれど、テトラスクロールで写真展を開催できることが、なんだかとても嬉しい。

2007年05月12日

●「今日は、木蓮さん」、「今日は、泰山木さん」

 朝、庭におりたって木々にあいさつする。「今日は、木蓮さん」、「今日は、泰山木さん」。
 もちろん、木は返事をしない。しかし、泰山木の枝にぶらさがり、木蓮の肌に触れていると、ゴツゴツした、ザラザラした肌ざわり、触覚をとおして、木々の返事がかえってくる。
 自然のなかの応答、感覚のやりとり、そこにアニミズムの出発点があるのではなかろうか。
あの枝にカミがいる。この木にカミが宿っているという前に、そこにアニミズム以前の風景がひろがっているのだ。

アニミズム時代」岩田慶治


 何年ぶりのことだろうか。
 一人暮らしの朝を迎えたのは。

 きっと20年はたっているだろう。
 最後の一人暮らしからは。
 そして、旅を別にすれば。
 
 心機一転。
 精算。
 聞こえはいいがどれも少し違う。

 あえていえばmindfullness、マインドフルネス。

 さて、駅まで20分、のんびりゆっくり歩いて出かけよう。
 

2007年05月06日

●真実は、単純な日常の動作のなかにこそある

ひさしぶりに、ブルース・リーの言葉を。

 多くの武道家は、真実に気がつかない。その原因は「より一層」を好み「何か変わったもの」を求めるからだ。
 真実は、単純な日常の動作のなかにこそある。触れ、感じ、見ることで手中にできるはずの真実を、大半の武道家は一点(全体でなく)を探り掻き回すことで、知りそこなっている。

ブルース・リー「魂の武器」
2007年05月05日

●存在することは、相互依存することである

サティシュさんの講演後、「君あり、故に我あり―依存の宣言」を何度も読み返している。アニミスティックな、キラリと輝く言葉がとてもいい。ティク・ナット・ハン師やダライ・ラマ法王猊下とも共通する東洋的なエレガントな知性がとても心に響く。

「すべては与えている」とジャイナ教徒はいう。太陽は植物に光を与え、植物は鳥に果実を与え、鳥は種を運び、種は自らを土に与え、そして土は種に命を与える。
 仏教徒はこの現象を「相互依存の現象(因縁生起)」と呼ぶ。太陽が昇るとき緑の芽が現れ、葉が広がり、花がつぼみをつけ、果実が形作られる。太陽と共に鳥は目覚め、太陽と共に人は目覚める。皆、共に目覚める。それぞれの目覚めは他のものの目覚めによっている。仏陀はこれに気づいたとき悟りを開き、ニルヴァーナ(涅槃)すなわち解脱の状態に達した。しかし、すべての生物が悟りを開くまでは一人だけのニルヴァーナはあり得ない、と仏陀はいった。私たちは共に上がったり下がったりし、究極的には私たちは皆一緒に沈んだり浮かんだりするのだ。私たちは相互依存である。「存在することは、相互依存することである」。私たちは、自分自身だけで存在することはできない。これは私たちの存在は他者の存在があって初めて可能であることを意味する。私たちは個別的存在ではなく、世界的存在なのだ。

君あり、故に我あり―依存の宣言」サティシュ・クマール
2007年05月04日

●ある種の鳥が集まって騒ぎ始めたら

一昨日は首都東京にいたのに、昨日、今日と晴天の下、畑仕事にひたすら精を出す。
テトラスクールの「ワタツクリ」で、子どもたちといち早く播いたワタももう芽を出している。

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先日、サティシュさんが「人類の進化」についての質問に対して、「進化」というと直線的なイメージが強いので、「展開(unfolding)」のほうがいいのではないかと語っていた。例えば、植物の種の中には、すでに成長した姿が内在している、そう、ドングリの中にはすでに大きな樹の姿がしまわれている、あとはそれを「展開」するだけでよい、そう言っていたことが、畑仕事をしていると感覚的によく理解できる。

「農的暮らし」とかではない。unfolding、展開すること。

「教育(education)」の語源となるラテン語、エデュカーレが「引き出す」ことを意味するように、潜在的な能力や様々な可能性を展開することが、ボクたち人間の仕事の大部分なのだ。だから、ボクは野菜やワタを育ててはいない、大いなる自然の贈与の恩恵に、ただただ感謝しながら与るだけなのだ。


 それでは、心身両面を健全にする運動とは、どんなものでしょうか。まことに自然はよくしたもので、心身を同時に使うことができるのです。地球上の大多数の人間は畑仕事をして生きています。農夫は骨の折れる肉体運動をしなくてはなりません。衣食を得るために彼は八〜十時間、時によるとそれ以上働かねばならないからです。そして精神状態も良くないと、能率の良い労働はできません。栽培法の細かいことにもすべて精通し、土や気候についての知識を十分にもち、太陽や月や星の運動に関する十分な知識も必要でしょう。非常に有能な人物でも、そういうことに関してはかなわないほど、農夫は刻々の環境の状態を十分に知っていて、星を見れば方角がわかり、鳥獣の道からいろいろのことを知ることができます。たとえば、ある種の鳥が集まって騒ぎ始めたら雨になるだろうと判断します。彼は自分の仕事に必要な土地や気候のことをよく知っています。子どもを育てるために、『ダルマ・シャーストラ』のこともある程度知らねばなりません。彼は広い戸外で暮らすので、神の偉大さを容易に理解することができます。

 人がみな農夫になれるわけではありませんが、農夫の生活こそ、人間の自然な生活だといえます。人間のこのような自然の生活から離れればは離れるほど、病気に苦しまねばなりません。農夫の生活から教えられるのですが、人間は精神労働も含めて、少なくとも一日に八時間は働くべきです。

畑仕事 M.K.ガンジー「ガンジーの健康論」

2007年05月03日

●君あり、故に我あり

一年半ぶりに東京へ出かけ、サティシュ・クマール講演会「小さな学校・小さなコミュニティ 〜 土(Soil)と心(Soul)と社会(Society)をつなぐもの 〜 シューマッハー・カレッジとスモール・スクールの実践に学ぶ」に参加してきた。

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子供たちへの合気道の指導や、テトラスクールの活動の中で、本当に必要な「生きる力」や「生きる知恵」が、教育の現場で伝えられていない事を強く感じていたが、サティシュさんの力強い言葉を聞いていて、自分がやることを確信することができた。そう、キッチンを教室に、菜園を教室に、自然を教室に・・・。

 暴力、あるいは非暴力は精神状態であり、生き方である。もし私たちが、ある暴力は正当化でき、ある暴力はそうではないと取捨選択するなら、社会的、人種的、宗教的、経済的、政治的な非暴力を築くための共通の文化は存在しなくなってしまう。非暴力の新たな文化を推し進めるためには、私たちは原点から始め、すべての生命の一体性と本質的価値を認める必要がある。自然や動物に対して攻撃的な思考様式は、他の国々や他の宗教の人々に対しても同様に攻撃的になる傾向がある。そして、他者に対する攻撃的態度は、国家や宗教や人種の集団内部での敵対へと姿を変えうる。
合理主義と非暴力 「君あり、故に我あり―依存の宣言」サティシュ・クマール