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2007年02月02日

●「ヤマト人」に待ったをかける人物がいた

今朝の朝日新聞千葉版の「伝説民話紀行 ヤマトタケル編」で阿久留王が取り上げられていた。昨年末、北山さんのトーク・ライブを企画した頃から、妙に気になっていたのがこの阿久留王だ。近いうちに訪ねてみようと思っていたので、なんともタイムリー。

akuruo.jpg
 北九州や出雲に上陸した「弥生人」は、やがて「ヤマト人」と名を変え東ヘ東へと進攻していった。そこには、開拓すれば米の採れる湿地帯が無限に広がっていたのである。その湿地帯には葦が豊かな緑を作っていた。豊葦原の国である。しかし、それは数万年前から住んでいた「縄文人」の地でもあった。当然摩擦が起きる。しかし、後から移住して来た「弥生人」のほうが圧倒的に力があった。「ヤマト人」は、「縄文人」を「蝦夷」と呼び蔑視、東へ東へと追いやったのである。  しかし、その攻防線上が房総半島に至ったとき、その「ヤマト人」に待ったをかける人物がいた。それが「阿久留王」であった。当然「阿久留王」は「ヤマト人」から見ればとんでもない「悪い人物」である。だから列記した名を付け、「賊」「兎」「蛇」として滅ぼしていったのである。  この「ヤマトタケル」と「阿久留王」との戦いの跡地に、聖徳太子は推古天皇六年、神野寺を建立、本尊に「軍(ぐん)荼(だ)利(り)明(みょう)王(おう)」と「薬師如来」を祭ったと言われる。 本尊の「軍荼利明王」は、三面六臂の忿怒の像であり、その六臂は六手に通じ「阿久留王」そのものを本尊としたとの伝説がある。  その説を採れば「軍荼利明王」をもって神格化しなければならないほど恐れられた人物が「阿久留王」であった。聖徳太子の時代は、ヤマトタケルの時代から三百年以上も後である。三百年以上経過しても恐れられた人物とは、裏返して見ればそれだけ民衆からの信望が厚かったとも考えられる。後世まで、人々の信望の厚かった人物の崇りを権力者は恐れる。だから神格化し祭ったのであろう。

露崎 清美「阿久留王」より

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コメント

鬼泪山(征伐された鬼たちが泪を流した山)、
染川(川が血で染まったから)、千種浦(もとは血臭浦)など、大殺戮があったことを裏付ける地名が今も残っています。
何も知らずに車で通りかかったときの、あのさびしさ、暗さが忘れられません。
下記のサイトが詳しいです↓
http://www.geocities.jp/marusyou03/sub12.html

ご紹介ありがとうございます。
とても参考になりました。
「灯台もと暗し」とはまさにこのことですね。

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