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2007年01月31日

●いわゆる”幸福”を逃してしまったのだ

敬愛する奇人・水木しげる先生がフランス・アングレームのベストコミック賞受賞したというニュースから(アニメ!アニメ!より)。

 1月28日までフランスのアングレーム市で開催された第34回アングレーム国際バンド・デ・シネフェスティバル2007は、オフィシャル2007のベストコミックブック賞に日本のマンガ家水木しげる氏の『のんのんばあとオレ』を選出した。  アングレーム国際バンド・デ・シネフェスティバルは、フランスで最もよく知られたコミックの祭典で、オフィシャル2007はそのなかの中心的なイベントである。ベストコミック賞はフランスのコミック界で最も価値のある賞であるともされている>。
 オフィシャルセレクションは国籍を限定しないため、日本のマンガがフランスでポピュラーになった2000年以降、ノミネートに日本の作品が入ることは珍しくなくなっている。  しかし、これまで2005年につげ義春氏や日野日出志氏の作品がノミネートされたことはあるが、全ての賞の頂点でもあるベストコミック賞を日本人マンガ家が受賞したのは初めてである。  アングレームのコミック賞は、大衆的な人気がある作品と評価の方法や考え方が異なる。しかし、今回の水木氏の受賞は、日本のマンガがフランスにおいて大きな影響力を持つようになったことをあらためて考えさせるものといってよいだろう。

さあ、次は「妖怪千体説」でノーベル賞受賞のニュースを待とう!!。

 いわゆる文明人というのは、貨幣経済に支配されているから、金がないとひどく恐怖する。事実、金がないとジュース一本買えない。
 ところが南の住人(自然民族というべきか)たちは、畑では最低生活は保障されているから、死ぬことはない。こういうことが、南方の人たちの奇妙なノンキさと関係していると思う。
 本来、人間はガツガツ働かなくてもいいのだ。文明人というのは、自分で勝手に貨幣を作り、便利がっているうちに、過分な価値をおくようになり、いわゆる”幸福”を逃してしまったのだ。「世界妖怪大全―世界はゲゲゲ」より
2007年01月30日

●おとなしいと言ったら

昨日、海がおとなしいと言った。
今朝、いつものポイントに言ったら、やっぱり今日も、海はおとなしかった。
これでは、入っても何もできないな、そう思ったボクは、ひとつ南のポイントに向かった。

「ん・・・」、おとなしくなかった。
かなりアウトで肩サイズのいい波がブレイクしている。
思い通りにいかないものだ、いい方にも悪い方にも。
久しぶりに心の底から思った、「サーフィンっていいなぁ」。

2007年01月29日

●真冬だというのに

真冬だというのに、海がおとなしい。静かなのとは違う、妙におとなしいのだ。
暖かな水温を求めて来るサーファーの数は多いのだが、肝心の波がない。
これも不都合な真実なのだろうか。

「ここの海はちがう。あれは最高の存在だ。その発展の過程で、神になるチャンスを通りこしてしまって、早くから自己の殻のなかに閉じこもってしまった存在だ。ここの海は、たとえて言えば、仙人だ。宇宙の世捨人だよ。決して宇宙の神なんかじゃない・・・。」スタニスワフ・レム「ソラリスの陽のもとに
2007年01月28日

●PROTECT ME FROM WHAT I WANT

限られたスペースと増え続けるモノの関係。このところ毎日その事に頭を悩ませている。5年前のウェブ・ダイアリーに、ボクはこんなことを書いていた。

 サーファーでもあるアーチスト(現在はバリに在住)、Ashley Bickerton(アシュリー・ビカートン)は80年代後半、サーフボード、車、タバコや新聞といった自らの愛用品から、(そのブランドのロゴステッカーを並べたることで)「苦悩する自画像」と題したシリーズの作品を発表していた。それを真似て、ボクも「ブランドロゴで描いた自画像2002」を制作してみた。

self.jpg
ブランドロゴで描いた自画像2002  (C) 2002 MAO Nagaaki
                             
 ヒトが道具を使うことで繁栄を続けてきた歴史の流れは、今も脈々と続いている。そのことは間違いない。ボクたちの周りを見回してみると、モノが溢れかえっている。欲望がさらなる欲望をドライブさせ、狂っているとしかいいようがない状況がここにある。ボクたちの築いてきたライフスタイルは、ともすると100円ショップに飲み込まれかねない。Jenny Holzer(ジェニー・ホルツァー)が1985年、ニューヨークのタイムズ・スクエアの電光掲示板を使って発表したメッセ−ジ、「PROTECT ME FROM WHAT I WANT」の意味は今でもまだまだ色褪せない。PROTECT ME FROM WHAT I WANT....。

なんだ、全然進歩していないじゃないか・・・。

2007年01月27日

●そ、そりゃないぜ・・・。

朝、海から帰って新聞別刷りを読んでいて、驚いた。

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確かに実感として、離婚家庭の多さは感じているけれど・・・、それにしてもそりゃないぜ、純、正吉。

2007年01月26日

●You are Ecco

リリィ博士に関連した原稿をもう一つ(コラム「VOICE OF VOICE モニター画面に泣く私1」)。あの時のことは今でも忘れられない。博士はすでに地球での旅を終えたが、きっと今でも・・・。(STUDIO VOICE VOL219 1994)

 現代は「物語」や「神話」をなくしかけているように思える。「ドラクエ」も「学校霊花子さん」も「超古代史」もなくしてしまった「物語」や「神話」への欲求なのかもしれない。「物語」や「神話」への想像力を喚起してくれるものを私は愛してやまない。そんな私がググッと感じたのが、「ECCO THE DOLPHIN」である。この一本のゲームソフトは、あらかじめゲームとしてプログラムされた「物語」を大きく超えて、様々な伏線ともいえる「物語」を感じさせてくれた。
 当時、日本橋に仕事場を構えていた私は、怪しげなものを求めて、秋葉原へ自転車で散歩に出るのを常としていた。御存知ない方も多いかもしれないが、秋葉原には輸入ゲームソフト専門店がいくつかあって、海外で発売されたNES(ファミコン)やSーNES(スーパーファミコン)、GENNESISS(メガドライブ)等のソフトを販売している。(この輸入ゲーム屋の雰囲気が怪しくてたまらない、ちょうど15年前位の輸入レコード屋の感じなのである。)ある日のこと、いつものようにへんてこソフトを物色していると、イルカが描かれたパッケージが目に飛び込んできた。ん、と思い手にとると「ECCO THE DOLPHIN」と書かれている。は、と思い裏を見ると「You are Ecco」の文字。いきなりそんなことを言われても困るぞ、と思いつつも、私の頭の中には一瞬にして「イルカ〜ECCO〜我が敬愛するジョン・C・リリィ博士」の一直線思考ラインが輝いていた。ECCOとはいうまでもなく、リリィ博士がコンタクトする宇宙的存在、地球暗号制御局である。思わず裏面の解説に博士の名を探して見たがどこにもない。どうやら、ECCOという名のイルカの冒険物語のようである。イルカでECCOときたら買うしかない、と購入し、私は急いで帰って深海への真昼の冒険の旅に出た。
 これが実に気持ちいいのである。よく、ゲームをしているうちに身体が動き始め、段々とキャラクターの動きに同調しはじめる人がいるが、その究極という感じなのである。イルカの動き、ジャンプが自らの生理的快感に直接繋がってくる感じなのだ。イルカをコントロールしているはずなのに、いつしか自らが跳ね、泳いでいるような気分になっている。酸素が足りなくなると自らも息苦しいような気さえしてくる。ECCOは海に起きた大異変と共に消えた仲間を探して旅に出る。クリスタルやクジラやオルカに助けられながら、北極海から古代遺跡、5500万年前の海、そして宇宙の彼方の「星」にまで。これはECCOの旅であり、同時に私の旅でもある。そして、これはECCOの「物語」であり、同時に私の「物語」でもある。モニターの中のイルカと私を結ぶものはヘッドマウントディスプレイでもなんでもなく、二本の親指だけであるにもかかわらず...。これは、感動である。所詮VR、AIなんていったって、私にはこの「ECCO THE DOLPHIN」や「ぼのいぢり」の身体感覚や知能レベルで十分だ。少なくとも私たちの心や身体が次のステップに移る日までは。(もっとも「ECCO THE DOLPHIN」も次のステップに移るためのアイテムなのだが。)
 余談ではあるが、我が敬愛するジョン・C・リリィ博士が来日した折、伊豆の友人宅で行われた博士を囲むワークショップでの夜、私が友人のCG作家、デザイナー、プログラマーらと「ECCO THE DOLPHIN」に熱中しているのを見つけた博士は一言「エコー」と、モニター画面の中の一頭のイルカにやさしく呼びかけた。そしていつまでもやさしく画面の中のイルカを見つめていた。BGMは博士のアシスタント、フィリップ氏がフォークギターの弾き語りで歌うバグルスの「VIDEO KILLS RADIO STAR」だった。これも「ECCO THE DOLPHIN」が生んだ、もう一つの「物語」といえるのかもしれない。
2007年01月25日

●キャキュキョ

昨日の地元紙の紙面から。

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妙にキョギョキョギョしているが、これもまた、偶然の面白さ。

2007年01月24日

●ビンゴ

ミクシィを使っている人なら、自分の参加しているコミュニティがランダムに表示されることは知っていると思う。もちろん、コミュニティに限らず、マイミクなどもシャッフルされるのだが、コミュニティのアイコンがいい具合に並ぶ時がある。グラブしそこねたが、袴姿の二人が並んだことがあった・・・、左から、立川談志師匠、塩田剛三養神館合気道宗家。今日も右向き二人、左向き二人、そして隣に◎。いい具合に並んでいて、美しいと思うのだが、どうだろう?。

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●精神を超える肉体の活動、燃焼がある。

今日は偉大なるスキーヤーにして、天才縄文画家・太郎さんの言葉を、傑作「挑戦するスキー」から。

「人間は運命にぶつかっている時に、逆に全身すべてがカラになる歓びを覚える。カラになっている時にこそ逆に全身が充実するのだ。
 生・死にただダイレクトに対している。なま身をぶつけ死と対面する。こういうチャンスは日常生活ではほとんど考えられない。スキーはピタッとそれに答えてくれるのだ。初心者の時から、危険に賭ける。それは精神だ。それと同時に、いわゆる精神を超える肉体の活動、燃焼がある。(46歳からのスキー)」
2007年01月23日

●より少ないものでもって生きる意図的な選択

旧ブログのタイトルの元になった、ボランタリー・シンプリシティ(自発的簡素)―人と社会の再生を促すエコロジカルな生き方のデュエイン.エルジンの言葉から。

外面ではより簡素で、内面ではより豊かな生き方。生の内的な側面と外的な側面の両方のバランスがとれた統合的な生き方。生の流れ(プロセス)のなかでかならずより多くのものが返ってくると信じて、より少ないものでもって生きる意図的な選択。いま以上にずっと軽く、やさしく世界に触れるための技術を意識的に学ぶ道。われわれのもっとも真正な生き生きとした自己が、生活のあらゆる側面(仕事、人間関係、消費活動など)と直接的・意識的に接触するようなあり方。われわれの人間としてのさまざまな潜在的可能性を開発するとともに、われわれがその分かちがたい一部であるところの世界の十全性に寄与する責任を受けいれるような生き方。生活の皮相的な諸側面を切りつめて、より多くの時間とエネルギーをもっと心にひびくような側面の開発にふり向けること、等々。明らかに、「自発的簡素」という考え方にはほかにもたくさんの定義ができるだろう。おのおのが自由に自分なりの定義を発見し、創造すればいい。

●テトラスクロールのカレーが美味しいとしたら

20代前半、ボクはロンドンで暮らしていた。
ロンドンに住むなら絶対にブリクストン!!!と思っていたけれど、実際に(穏健派の)ボクが選んだのはインド人やアラブ人が多く暮らすイーストロンドンのさいはてのアップトン・パークという街だった。パークといってもそれはセントラル・パークのような公園ではなく、寂れたサッカースタジアムのことで、試合のあるときだけ多くの人で溢れるようなところだった。マーケットやショップも普段は閉まっていて、試合の開催日に合わせて開け閉めするような、まるでボクが生まれ育った東京下町の縁日やお祭りを思わせてくれるような街だった。

今日、そんなアップトン・パークという街をレポートしたウェブを偶然見つけて、嬉しくなってしまった。

"「ここはロンドンじゃねぇ!」と思うぐらいインド系移民の人々が住む街・アップトンパーク。「あそこの看板は何語だよ。英語じゃないよ!」とか「服飾屋…民族衣装?」とか。"

このページを作った人の素晴らしい洞察力と率直な表現力に感謝。あぁ、ロンドンに行きたくなってきた。ボクの暮らしていたアパートメントは、このアップトン・パークの駅前、ケバブ屋と電気屋の間の道を渡ってすぐの所にあった。今でもあのアパートメントはあるのだろうか?。もし本当に、みんなが言ってくれるようにテトラスクロールのカレーが美味しいのだとしたら、それはこの街に暮らしていた多くのマイノリティのおかげだと思う。だってボクは、この街で、インド人、中国人、パキスタン人、アラブ人らが経営するお店のカレーばかりを、毎日毎日、日替わりで食べていたのだから・・。

2007年01月22日

●人間の将来像と、この地球上のサバイバルの可能性

先日のエントリー「現在の生き方以外の生き方」で紹介した、ジョン・C・リリィ博士「イルカと話す日」についてボクが書いた書評から・・・。今見ると、妙にキーワードだらけで恥ずかしいが、ここに転載しておく。

それまでの沈黙が嘘だったかのように、立て続けて来日を果たしたジョン・C・リリィ博士。自らの手で、自らにかけられた神秘のベールを徐々に剥いで行くかのようなここ数年の博士の言動から目を離すことができない。謎と伝説に彩られた博士の歩みが、今、この時代になって明らかにされてくることは「生命」の大きな意思とも思える。そしてこのことは同時に、我々に博士の歩みを理解できる時期が訪れたことを意味しているともいえるだろう。イルカ博士として高名なジョン・C・リリィ博士ではあるが、残念なことに博士のイルカ博士たる著作を目にするためには古書店に足しげく通うか、原書にあたるしかなかった。(もっとも博士の人間追及の著作「サイエンティスト」、「意識の中心」などからある程度垣間見ることはできた。)。この「イルカと話す日」は今から16年前、1978年に出版された「Communication Between Man & Dolphin」の待望の邦訳である。イルカとの異種間コミュニケーションを謳った「Man and Dolphin」(1961年、学習研究社・絶版)、姉妹篇「The Mind of the Dolphin:A Nonhuman Intelligence」(1967年、未邦訳)に続いて出版されたこの一冊は、1955年から始められた、博士の膨大なイルカ研究の実態を具体的に知ることができる歴史的な著作といえる。本書に収められた豊富で貴重な図版やデータは我々の常識をいとも簡単に覆してしまう。イルカ・クジラを「脳」を手がかりに認識しようという博士の試みは、科学者、研究者の資質や資格、心構え(=生態系の一員としての自覚を持った科学的観察者)やイルカ・クジラをも範疇に加えた新しい法律の制定、イルカ・クジラの権利、イルカ・クジラとのコミュニケーション成功後の社会、産業にまで広がりを見せる。多くの哲学者や詩人、ナチュラリストが試みたアプローチを、あくまでも科学者という立場で貫こうとした博士の意気込みが今なお感じとれる。出版当時に博士が確信した異種間コミュニケーションは現時点では未だ現実のものとはいえないが、博士が今なおゆるぎない確信を持ち続け、その実現に楽観的な見通しを持ち続けていることにこそ、この「イルカと話す日」という著作の今における真価がある。博士は本書の中で、きわめて科学的=論理的(まるでバルカン人のよう)に、「脳」を手がかりにイルカ・クジラを追及し、人間とのコミュニケーションについて探求している。言い換えれば、そのことはそのまま、人間を追及することであり、生命を追及することでもある。本書の中で博士が繰り広げている異生物と人間(他者と自己)に関する展開は、「イルカ・クジラは賢い」「イルカ・クジラは可愛い」といった簡単な感想を持たせてはくれない。現在巷間を賑わしている、いわゆる「イルカ・ブーム」とは本質的に異なる、より求心的なベクトルが本書の中にはある。我々は自己に対して、また同様に他者に対して、もはや「他力本願」ではいられない。LSDに代表される向精神薬における体験や、野性生物との遭遇、信じられないような自然体験、伝統宗教における身体行、ビジョン・クエストなどのネイティブ・ピープルの儀式などは本来、「自分がこの宇宙の中で決して特別ではなく、他の生命とまったく等しい一つの生命である」ことを知るための技法だったはずである。しかし、そういった体験が逆に「自分は特別である」という思いを強くさせてしまいかねない恐れのある今こそ、こういった一冊が広く読まれることを願う。博士は本書の中で、「人間がついにブレークスルー(限界の打破)を達成し、高度な知性を持つ、地球上の別の生命とコミュニケーションを交わすようになった」近未来を想定している。そのわくわくするような未来は、まさしく全員が勝者のゲームのように思える。イルカ・クジラも、人間も、他のすべての生物も、環境も、精神も、すべてにとって有益な未来のように私には思える。続けて博士は言う、「人間の将来像と、この地球上のサバイバルの可能性については、以上述べたような未来像が、もっとも実現の可能性が高いと著者には思えるのである。こうした構想を持たないかぎり、人間は現在の生き方を改めることができないだろう。人間の科学、技術、社会はますます独善的な傾向を強め、自分以外の生物や、現在の生き方以外の生き方について考えなくなるだろう。人間が空の星に目を向けるようになり、地球上の人間以外の生物に注目するようになれば、視野が広がり、その科学はいっそう充実し、その哲学は、本来の宇宙と調和したものになるだろう。」と。この言葉こそがすべてを語っているように私には思える。地球は決して人間のものなどではないし、イルカ・クジラも人間にとっての海洋資源、観光資源などではない。博士の描く近未来は、生命の輝きに溢れたネオ・アニミズムともいえるような時代なのではないかと、私は思う。(スタジオヴォイスVOL227 1994)
2007年01月21日

●食の未来 決めるのはあなた

 昨夜(今夜)は、ブック・カフェ テトラスクロール初めての上映イベント「食の未来」上映会の初日、おかげさまで無事終えることができた。

 映画「食の未来」の冒頭に登場する農家パーシー・シュマイザーに関して、ボクは5年前のウェブダイアリーにこう書いている。

2002年04月09日(旧暦2月27日) 「ワールド・ウォッチ 日本語版」の最新号が届いた。「モンサントの種子戦略との法廷闘争」と題されたパーシー・シュマイザーのインタビューに語られる現実には、危機感、恐怖感を覚えた。71歳になる農場主、パーシー・シュマイザーは、自らの畑に(種を蒔いた覚えのない)モンサント社の遺伝子組み換えカノーラ(菜種)が生育していたことから、モンサント社に特許権侵害の訴えを起こされ有罪判決を受けた。(→ WIRED NEWS「遺伝子組み換え菜種、栽培側でも裁判」「カナダの遺伝子組み換え菜種訴訟、公判始まる」)風で飛んできたかもしれない、以前の土地の持ち主が蒔いたものかもしれない、理由や由来にかまわず、モンサント社の遺伝子組み換えカノーラは、彼が53年かけて育種してきた種子を汚染し、彼に二度と自分の種子を使えなくしてしまった。


 考えてみてほしい、あなたがずっと育てて、パスタやサラダに利用してきたバジルがある。あなたは種子を自ら採種して、次のシーズンにまたその種子でバジルを育てて美味しく利用する。ある日、あなたのバジル畑の中に、遺伝子組み換えバジルが見つかり、あなたは訴えられ有罪となる。風で飛んできたのかもしれない、鳥が運んだのかもしれない、日頃あなたを妬み憎んでいる人間があなたの畑に蒔いたのかもしれない。いずれにせよあなたは訴えられ敗訴した。あなたは損害賠償を支払うことを求められ、そしてもう二度とあなたの種を使うことはできない。そんなことが本当に起こったとしたら・・・。

 本来、「種子はオープンソース」であるべきだと、ボクは思う。様々な地域で育てられ、愛されてきた地方品種が、恐るべきスピードで姿を消していく。おじいさん、おばあさんの食べていた野菜がもう食べられなくなっている。種子を守り、そのネットワークをつくっていく「Seed Savers' Network」やその日本版ともいえる「たねとりくらぶ」の活動は本当に大切なことなんだと思う。「スロー・フード運動」や「シード・セイバーズ」といった活動がもっともっと必要なのは、イタリアやオーストラリアではなく日本なんじゃないだろうか。驚くべきことに、日本にはカナダよりも多くのMドナルドがある。失われゆく作物の多様性を守るには、今行動を起こすしかない。

なんだ・・、5年前から何も変わっていないじゃないか。いや、ますます悪くなっている・・・。

2007年01月19日

●エネルギーはそのままの状態でそこにある

今日もサーフィンにまつわる素晴らしい文章を紹介したい。ダニエル・デュエインの小説「コートインサイド―カリフォルニアの海が教えてくれた」から。

「ビーチに足を踏み入れると」、彼はいった。

「すでに自然に包まれている。自然はあいまいに存在することも、中途半端に存在することもない。大白然のエネルギーすべてが、まさにそこにあるのだ」

--- 彼はそういって、風が彫りだした大きな波のラインを指さした ---

「混沌の中の、人間の手で汚されていない幾何学だ。そのエネルギーを弱めたり、変えたりしてしまうものは何もない。エネルギーはそのままの状態でそこにあるのだ。ビーチを歩いたり、アシカと目を合わせるだけでも、そのエネルギーは伝わってくる」

2007年01月18日

●そしてそれで充分だ、それ以上は必要ない。

サーフィンが教えてくれるあの感じを言葉にすることは難しいけれど、片岡義男さんのこの一文は秀逸。 片岡義男「宇宙の時間と空間のなかへ」から。
 

「サーフボードの上に腹ばいとなり、その人はパドリングで沖へ出ていく。宇宙の時間と空間のなかへ、その人は超微小距離だけ、入っていく。そしてそれで充分だ、それ以上は必要ない。」

2007年01月16日

●サーフィンやスノー・ボーディングが教えてくれる世界

今年はスキー場にも雪が少ないらしい。新しいスペースを持った関係で、今年は雪山には行けそうにもない。毎日サーフィンができるんだから、それはそれで充分幸せなんだけれど、やっぱり何㎞も続くあのドライブ感も忘れられない・・・。

2002年、菅平でヘリ・ボーディングを体験した後のボクの日記から。

 友人たちによく、アニミズムやシンプル・ライフなどとサーフィンやスノー・ボーディングなどとの関係について「どう関係があるのかわからない」、「体育会系?」、「環境破壊!」などと言われる。でもそうじゃないんだ。ボクが「からだで思想する」という表現を使うように、自然の中で行うエクストリーム・スポーツやアウトドアでの体験は、何事をもフラットに均一化しようとする脳的な世界からボクたちを解放し、からだ本来が持つ原始感覚の世界への回帰をうながしてくれる。足裏の微妙な感覚を瞬時に判断した素早いアクションは、からだ自身が判断して、からだ自身が行っていることなのだ。そしてそこで得られる感覚は、瞑想的でアニミスティックで、ときにシャーマニックなものだ。スノー・ボーディングの本来のフィールドはスキー場ではなく、自らの足でハイクアップしてこそのバックカントリーだと思うし、大きな波を楽しむためには自らのパドリングでその向こうへとたどり着かなくてはならない。そのことさえ忘れなければ、サーフィンやスノー・ボーディングが教えてくれる世界は間違いなく正しいものだと、ボクは思う。
2007年01月15日

●我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか

「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか (D'ou venons-nous? Que Sommes-nous? Ou allons-nous?)」、これはゴーギャンの作品のタイトルだが、今年になって多くの人の、表現こそ違ってはいるが、その核心にこのような意味を含んだ発言を目にすることが多い。この新しいアニミズムオンラインも、同様に、そんな問いから生まれた。

我々はどこから来たのか。

我々は何者か。

我々はどこへ行くのか。 

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ゴーギャンの人生の集大成といわれるこの作品は、他の作品と比べて実に暗く、なんとも重い。画面右から左に、人間の生から死にいたる過程が描かれていて、画面左には、タヒチ神話における絶対の存在である創造神タアロアが描かれている。創造神タアロアは、自分自身の姿に似せて人間を造ったとされているが、その影はクジラまたはホオジロザメのものだといわれている。

クジラ漁の港町で、毎日サメを見ているボクにとっては、なんか意味のありそうな気がしている。今はまだ、それがどういうことなのかはわからないけれど・・。

2007年01月14日

●ゾウ 自己認識力など確認…

ゾウ 自己認識力など確認…」というニュースから。

 巨体ゆえに、ほとんど知能実験がなされていなかったゾウについて、東大大学院人文社会系研究科の入江尚子さん(24)が、独自の研究を進めている。大型類人猿などにしかない自己認識力があることも、世界に先駆けて確認するなど注目される。  入江さんは一昨年夏、100頭以上のアジアゾウが放し飼いになっているタイ東北部・スリン県に2カ月近く滞在し、自己認識力を試す実験をした。2歳のオスにあらかじめ、触れると「ピンポーン」と鳴るおもちゃを見せ、鼻でタッチすればバナナを与え、おもちゃを見ると鼻でタッチするよう訓練した。  次に畳1枚ほどの大きさの鏡を見せた。最初は自分の姿を他のゾウだと思い後ずさりしたが、すぐに鏡の後ろに鼻を回して何もないことを確認した。そこで、ゾウからは見えない頭の上におもちゃを掲げ、鏡越しで見せたところ、鼻を鏡に向けることなく、一発で頭の上に伸ばしておもちゃにタッチした。  鏡に映る姿を自分と認識できる動物は、チンパンジー、ゴリラ、オランウータンなど大型類人猿とイルカだけで、人間の赤ちゃんでも2歳半以上でないと分からないとされている。

あら、そんなことも知らなかったんだ・・・、まったく人間という生きものは・・・。

●宇宙そのものである私

今日も合気道に関する言葉を紹介したい。
昭和32年に出版された「合気道」から、合気道創始者・植芝翁先生の言葉。

 合気道の極意は、己を宇宙の動きと調和させ己を宇宙そのものと一致させることにある。合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、「我は即ち宇宙」なのである。

 私はこのことを、武を通じて悟った。

 いかなる速技で、敵がおそいかかっても、私は敗れない。それは、私の技が、敵の技より速いからではない。これは、速い、おそいの問題ではない。はじめから勝負がついているのだ。

 敵が、「宇宙そのものである私」とあらそおうとすることは、宇宙との調和を破ろうとしているのだ。すなわち、私と争おうとという気持をおこした瞬間に、敵はすでに敗れているのだ。

 そこには、速いとか、おそいとかいう、時の長さが全然存在しないのだ。

 合気道は、無抵抗主義である。無抵抗なるが故に、はじめから勝っているのだ。

こんな言葉を聞かされたら、誰だって合気道を始めようと思うんじゃないかな。

2007年01月13日

●見ておかないと駄目

昨日、気になることがあって、読み返した「高岡英夫の極意要談―「秘伝」から「極意」へ至る階梯を明らかに」の中の養神館合気道宗家・塩田剛三先生の言葉を。

高岡
今、基本というお話が出たのですが、植芝先生の時代には基本という概念はないですよね。

塩田
ないです。ええ、基本はないです。

高岡
そこで基本を作られたのは塩田先生のお考えですよね。

塩田
まあ、私なりの考えですけど。先生のあらゆる面における行動をよく見ないといかん。植芝先生の重心の移動にしろ、体の変更にしろ、あらゆる面の行動をよく見たことが根本だと思います。お供をしているときにお歩きになるときの状態をじっくり見ておきまして、そして右へ足を出したら左足はどうなっているいるか、階段を昇られているときはどうなっているかということをよく見る。そういうことを見ておかないと駄目だと思いますね。

「基本はない」といのもスゴイし、「あらゆる面の行動をよく見たことが根本」というのもまたスゴイ。

2007年01月12日

●現在の生き方以外の生き方

昨年の暮れから、止まっていた時間がまた動き出したような気がしている。
失われた12年を取り戻すように、いろいろな場所で、いろいろな人たちが・・・。

ボクは、昨年ブック・カフェ・テトラスクロールでの北山さんのトークライブから、ずっと敬愛するジョン・C・リリィ博士のことを考えている。どう表現したらいいかわからないけれど、「伝説」にしてはいけないことが、ボクたちが経験してきたことにはいっぱいあるように思えるからなのかな・・。


イルカとの異種間コミュニケーションが実現した未来を想定して書いたジョン・C・リリィ博士の言葉から(「イルカと話す日」)。


「人間の将来像と、この地球上でのサバイバルの可能性については、以上述べたような未来像が、最も実現の可能性が高いと著者には思えるのである。こうした構想を持たない限り、人間は現在の生き方を改めることができないだろう。人間の科学、技術、社会はますます独善的な傾向を強め、自分以外の生物や、現在の生き方以外の生き方について考えなくなるだろう。人間が空の星に目を向けるようになり、地球上の人間以外の生物に注目するようになれば、視野が広がり、その科学はいっそう充実し、その哲学は、本来の宇宙と調和したものになるだろう。」

2007年01月11日

●するんじゃない、なるんだ。

ボクがサーフィンをしている理由は、すべてジェリー・ロペスという人がいたから・・・。
この人が語っていることは、どういうことなのだろう、それを自ら体験したくて、ボクはサーフィンを始めた。


テレビ「彼らの海Ⅲ サーフィンの神様に出会う旅」から、ジェリー・ロペスの素晴らしい言葉を。

上手になるということは、君自身がサーフィンになることだ。

頭の中だけでなく、すべてがサーフィンになること。

君自身が海の一部になり、君の内部が波や海やすべて(自然)と繋がること。

そのための方法は、そういう存在になることなんだ。

サーフィンはするんじゃない、なるんだ。

(元エントリー 「するんじゃない、なるんだ。」)

2007年01月10日

●「所有」しようとすることが多すぎ

バックミンスター・フラーの言葉から。

世界中のベッドと寝室は、一日の3分の2は空いている。 自動車も一日の6分の5は誰も乗っていないし、動いてもいない。 この無駄にはふたつの大きな理由がある。 ひとつは、われわれは何をやるにしても、最大の負荷を想定するからである。 ふたつめは、「所有すること」が正当であることを示すためだけに 使う物を「所有」しようとすることが多すぎ、またそのための物が溢れているからである。
 

◎ → The Buckminster Fuller Institute

(元エントリー 「だってみんなひとりだろ

2007年01月09日

●時空のサーファー

ホゼ・アグエイアス「時空のサーファー」から。

銀河スカウトから見ると、僕たち人間はどうしようもない麻薬中毒患者みたいなものなんだ。あらゆる種類の化学製品や人工的な刺激物にハマってる僕たちが代わりに作りだすものといえば、有害な廃棄物ばっかり。銀河スカウト隊員たちは、僕たちが地球の癌細胞だってことに気づいてないことを大笑いしてるよね。放射能、一酸化炭素による大気汚染、癌、エイズ、オゾン層の破壊、殺されるイルカたち、熱帯雨林の消滅、テロリズム、雲量の増加----こういった出来事が実はすべてつながっているということを、僕たちがわかってないのを笑ってるんだ。

こういうぶっ飛んだ本も、時には必要だ。

(元エントリー 「時空のサーファー

2007年01月08日

●自然を思想しているか

今日読んだ「ヤオロズ日本の潜在力」の中の「<対談>鶴岡真弓=月尾嘉男 ケルト文化・アイルランドと日本」から鶴岡真弓さんの言葉を。

 この六〇年の間に、なぜ、日本人が「魂」を失ってしまったのか。それは、自分たちの手で自分たちの表象としての自然、環境を度外視して、西洋の借り物である爪先立った自然観の中で愚直に生きてきた結果です。「物理的に自然環境が変わってしまった」と嘆く前に、自分たちがしっかりと「自然を思想しているか」どうかを自問しなければならないと思います。(鶴岡真弓)

●水の如く、ただ在れ。

浜野安宏「新質素革命」から。

 何かに支配されないと生きていけないような人間に居直るのは、もうやめよう。
じゃあどうしたらいいかって?
生真面目に自分を見つめて、毎日の生活を、地平から離れずに楽しんで生きればいい。
「平常心是道也(へいじょうしんこれみちなり)」
たまに澄み切った自然の川を見続けたほうがいい。川は上から下にしか流れない。
「如水」
身体に染み込む言葉だ。水の如く、ただ在れ。川とともにただ在れ。
サーフィンのグル、ジェリー・ロペスも同じようなことを言っている。
「Just Flow With It」
それの、つまり最高の波の命ずるままにただ浮かんでいろ。
波の何たるかを体得している人間、どうしたら波とともに自然に漂えるかがわかった人間だから言える言葉なのである。
 いつでも自分でいられて、新しい変化にごく自然に応じられるようになること。ただ自分で在りきることが、変化を呼び込み、新しい状況を巻き起こすのである。
 質素革命の基本は自然に素直に、喜びをもって、ただ在ることなのである。

「生真面目に自分を見つめて、毎日の生活を、地平から離れずに楽しんで生き」ること、ボク自身にとっての今年の大きなテーマでもある。

2007年01月07日

●人が持つべき3つのもの

「カイ」の歌い手、ボロット・バイルシェフのインタビュー(雑誌「ソトコト」2003年9月号)から。
(「カイ」は、モンゴルの「ホーミー」やトゥバの「ホーメイ」にように倍音を駆使した、「アルタイ」のシャーマンによって歌い継がれてきた「英雄叙事詩」。)

「カイの歌い手は、人を治療する人、治療師です。歌っているとき、宇宙との繋がりをいつも持っている。」
「私の師匠の言葉ですが、『人間は3つの持つべきものがある。美学、いいものを嗅ぎわける嗅覚、そしてファンタジーだ。ただ、残念ながら3つめのファンタジーは必ずしもみんなが持っていない』と言われました。」

(元エントリー 「人が持つべき3つのもの」)

●良い姿勢を習慣づけるために次の点に注意すること。

ブルース・リーの言葉、「魂の武器 」より。


良い姿勢を習慣づけるために次の点に注意すること。


(1)重心を下げる


(2)両足の間に自然な歩幅を残しておく


(3)足の裏の親指のつけ根のふくらみで体重をささえるようにする


(4)ランニングの際も膝をいくらか曲げる


(5)繊細ですばやい動作の際も重心を保つ




ブルース・リー 「魂の武器」

(元エントリー 「良い姿勢を習慣づける」)

●「バカジャコ」はダメ、差別語含む魚30種を改名へ

「バカジャコ」はダメ、差別語含む魚30種を改名へ」というニュースから。

 日本魚類学会(松浦啓一会長)は、「バカジャコ」「イザリウオ」など差別的な言葉を含んだ魚の標準和名を改名する。

 見聞きした人を精神的に傷つけたり、不快感を与えたりすることがある上、博物館や水族館などが別名への言い換えをバラバラに行う例も多く、混乱を解消すべきだと判断した。今月中に正式決定する。動植物や昆虫などにも差別語を含んだ標準和名が多いだけに、他学会にも影響を与えそうだ。

(中略)

 同委員会は、「クロメクラウナギ」を「クロヌタウナギ」、「オシザメ」を「チヒロザメ」などとする改名案を作成しており、近く学会の評議員会に提案する。新しい標準和名は学会以外に拘束力はないが、博物館や水族館などにも使用を呼びかける。


テトラスクロールの下の海を泳いでる「ドヂザメ」が、「フチュウイザメ」だったら嫌だな。

2007年01月06日

●愛の反対は憎悪でなく恐怖

アニミズムオンラインのインデックスページを、(あえて古いブログを読み込むことなく)まるで新しいブログとしてスタートさせた。旧ブログも独り言的に続けていこうと思うが、重要な「言葉」などを少しずつ(手作業で)書き写していこうと思う。


2004年の幕開けに向けて、オノ・ヨーコさんからのメッセージ(抜粋 全文はこちら。)

なぜなら愛の反対は憎悪でなく恐怖であり、知恵の反対は愚かさでなく混乱であり、二点間の最も短い距離は、私たちの希望と揺るぎない信念なのです。

    「オノ・ヨーコから、新年を迎えるにあたっての平和メッセージ」(抜粋)


「Don't Panic!!」、くれぐれも、恐怖や混乱に支配されないように___。

(元エントリ−「相手の言うことを聞く」)

2007年01月04日

●BSEにならない牛を開発

BSEにならない牛を開発」というニュースから・・。

 牛海綿状脳症(BSE)に関係するプリオンタンパク質を持たず、BSEにかからない牛を遺伝子操作でつくったと、キリンビール子会社を含む日米の研究チームが3日までに米科学誌ネイチャーバイオテクノロジーに発表した。

 同じ病原体が原因で人がかかる変異型クロイツフェルト・ヤコブ病の感染を防ぐ手掛かりになるとしている。

 BSEやヤコブ病は、脳細胞などの表面にある正常型プリオンタンパク質が、異常型プリオンタンパク質により異常型に変形させられ増殖することで発症するとされる。

 チームは正常プリオンをつくる遺伝子が働かないようにした牛の体細胞の核を、核を抜いた受精卵に移植して子宮に戻す体細胞クローン技術で、正常プリオンを持たない牛を12頭つくった。

最後の部分を、しっかり読んでほしい。

正常プリオンを持たない牛を12頭つくった。

「BSEがそんなに嫌なら、そもそもBSEになる部分の無い牛創っちゃうもんね。」、簡単に言うとそういうことだ。バイオエシックス=生命倫理なんて言う言葉を持ち出すまでもない、ただ一言、「狂っている」としかいいようがない。

研究に携わる人々の感覚の麻痺や狂気じみた行いは、ボクらからも見えやすいし非難することもできる。一番怖いのはボクたちの無関心や感覚の麻痺だろう。目の前で何が起きているのか、そのことをしっかり見つめる努力も忘れてはいけないのだ。

●だからこそ「ここ」にしっかりと居なくてはいけない。

インターネット黎明期の原稿を紹介したついでに、当時書いたニュアンスの近い文章をもうひとつ。
これは、高城剛氏が始めたパソコン通信「フランキーオンライン」のニューススタンド用に書いた原稿で、これを読んだアメリカ人英語教師の方から、教材に使いたいので英訳させてほしいとオファーがあった。(せっかくなので英訳もアップしておく。)フランキーオンラインは、テキストオンリーだったパソコン通信に、(あらかじめCDでコンテンツを渡しておくことで)グラフィカルなインターフェースを持ち込んだ先進的な取り組みだった。(パソコン通信時代に行われた様々な実験を、今一度整理しておく作業の必要性も感じている。)mixiなどののSNSの登場で、パソコン通信時代の「濃厚さ」が、なんだか妙に懐かしい。

 かぎりなく広く、深く、青い海の中でザトウクジラは歌う。繁殖期の雄によって歌われる「音楽」はいくつかのフレーズで構成されたテーマの組み合わせからなり、6分程度のものから30分を越す大作まである。彼らは僕の知らない何処かの海でその歌をくり返し何時間も、時には一日中歌い続けている。もちろん、この惑星に生きる全てのものたちが何らかのかたちでメロディーを奏で、リズムを刻んでいることを僕は疑わない。鳥も魚も草木も、道ばたの石ひとつだって歌っている。そんなことはあたりまえのことなのだが、ザトウクジラの歌は僕たち人間のそれと非常に近い形態を持つためかよりダイレクトに響いてくる。地球のゴスペルとでもいえるようなその歌は1500Kmから1万Kmもはなれたクジラたちにも届くといわれている。もしかするとアラスカのクジラと南極のクジラは会話をしているのかもしれない。今僕らが手にしはじめた新しいネットワークを考えるうえで、彼らイルカ・クジラたちのネットワークに目を向けることもけっして時間の無駄ではないだろう。かつてジョン・C・リリィはイルカの音声コミュニケーションについての質問に、「私はファクシミリが好きなんです。なぜならファクシミリでの通信は、イルカ同士が行うのと全く同じようなコミュニケーション方法だからです。私の手元にある目に見える一枚の書類と相手の手元に届いたコピーとの間には電話線を通るピーガーという音声があっただけなのです。」と答えたことがあった。たしかに今僕たちの目の前にある新しいネットワークは彼らのそれと随分と似ている。もっとも彼らのバイオ・ソナーと違い、いくらかの投資によるハードウェアと毎月の電話料金が必要ではあるが、それも時代とともに軽くなっていくことだろう。問題はそんなことではない。この星を包みこむようにひろがり続けるネットワークの中で、僕らはこれからどんな歌を歌っていけるのだろうか。国境線など軽く飛びこえたネットワークは、いともかんたんに僕たちを「そこ」や「あそこ」や「あっち」に連れていってくれる。だからこそ「ここ」にしっかりと居なくてはいけない。しっかりと「ここ」に居なければ、この新しいネットワークは僕たちが今一度この星のネイティブとして生きるためのツールにはなってくれないだろう。コヨーテやサボテンや黒曜石のように僕らも時間や距離の束縛から解き放たれて、このネットワークで歌を歌おう。僕らが再びこの地球というバンドの一員になれるように。グレゴリー・ベイトソンがネイティブ、狂人、子供といったテーマを経て、イルカの研究に辿り着いた道のりを、僕らは新しいネットワークを使うことでさかのぼろう。そして、この星のネイティブたちが豆やトウモロコシやジャガイモの成長のために歌いかけるように、ザトウクジラが何処かで生命の歌を歌い続けるように、僕らも新しいネットワークに歌を響かせよう。

Humpback whales singing in the deep and expansive blue ocean. Male humpback whales sing for 6 to 30 min., music that combines different musical phrases to create the dominan theme. They sing sometimes for a few hours, sometimes all day long, somewhere the ocean unknown to us. Of couse I have no doubt all creatures that live on this planet sing the music and keep the rhythm in their own way. Even birds, fishes, trees, plants and stones on the path sing. It is obvious, the song of the humpback whale, so similar to human song, echoes more directly to the human soul. The song, the gospel of the earth, can reach whales from 1,500km to 10,000km apart. Whales may possibly communicate between Alaska to Antrarctic Ocean. It is not a waste of time to examine how whales network with each other when we think about the new human network we have just begun to explore.

When Dr. John C. Lilly renowned authority on dolphin communication was asked about similarities between human and dolphin communication, he responded, " I like fax machines. Because fax machines communicate exactly the same way dolphins do. There is only the sound " pee...gahh.. " on the phone line between the report in my hand and the copy report that comes out the other end. ". He is pointing out the similarity between whales' and facsimile communication. The hot new network in front of us and fax communication are certainly similar to the way whales communicate One difference between then is, unlike the whales' biosonar the network requires expensive hardware and monthly phone payments. But hopefully with time this difference will disappear.

But, that's not the point. The point is what we can sing on the network that keeps spreading and surrounding this planet. The network makes it so easy to skip over borders taking us, over there, faraway and totally to the other side. But in order to tour the world, using the network as natives of this planet, we need to stay where we are.

Let's sing the song. Fell free from time and distance like coyotes, cactus and obsidian. Let's sing the song to be members of the earth's band again. Let's go back, like Gregory Bateson who understanding primitive cultures, insanity and children come to understand dolphins. Let's echo the song across the network, the way the Earth's natives sing to beans, corns and potatoes to help them grow, the way humpback whales sing the song of life.

2007年01月03日

●宇宙朝顔、宇宙猫。

昨日書いた岩田先生について、「オススメの一冊はどれ?」と聞かれることがよくある。

そんなとき、ボクは迷わず、「からだ・こころ・たましい」の最後の部分、と答えている。「からだ・こころ・たましい 宗教の世界を旅する」は、サブタイトルにあるとおり、子供向けに世界の宗教をわかりやすく説いた一冊なのだが、まとめとにあたるあとがきが素晴らしい。そこには「宇宙朝顔」が語られているのだが、長いのでここに引用
することは難しい。そのニュアンスを伝えるのにどうした良いか考えていたところ、工作舎のウェブの「週刊媒体探偵団 079 休日の午後に」に、宇宙○○のエッセンスがとてもよく伝わってくる文章があった。


◎ かつてのはかなげな子猫ももう2歳、ガッシリとしたいかにもオスの茶トラという体つきになったけれど、のどかに眠る猫を見ていると、こちらもなんとなくおだやかな気分になる。そんな折りふと思い出すのは、『草木虫魚の人類学』を読んで興味を惹かれた人類学者・岩田慶治先生の講演会に行った時のこと。その一つはこんなお話だったと思う。先生は、当時ご自宅で飼われていた老猫が静かに眠る姿を見て想像をめぐらせたそうだ。


◎……ここで今眠っている猫が、もしもただの猫ではなくて【宇宙猫】だったとしたらどうだろう。この地球上で生きとし生けるものすべてと結ばれている猫だったら。そうしてこの猫がいずれはかなく死を迎えたら、もちろん家族の一員を失った私たちは悲しいけれど、それだけではないかもしれない。地球上のすべての命あるものたちが、一つの命が失われたことを感知して、自分たちの存在のありようのままに、その死を傷むにちがいない。木々は風にそよいで枝を鳴らし、花はこうべ頭をたれ、鳥は一声をあげ、魚は尾ひれを翻し……。そうしてそのありさまをはるか宇宙から眺めたとしたら、地球上のすべての命の嘆きがきらきらと光を放ち、さながら1個の地球曼荼羅と化して輝くにちがいない……。

これを読んでくれているキミたちすべてが、宇宙○○だと言うことに気づいてくれることが、今、とても大切なのだとボクは思っている。このでは、一年間に3万人以上の人が、自ら命を絶っている。3万以上の宇宙○○が、自ら消えていなくなっている・・・。生き延びるための哲学としても、岩田先生の著作を重ねて薦めたい。冬休みが終わったら、キミの家から一番近い図書館に足を運んでほしい。そして、蔵書カードの束から、岩田先生の著作を探してほしい。幸運にも、そこに岩田先生の著作があったなら、迷わず借りて読んでみてほしい。もし、そこに岩田先生の著作がなかったなら、リクエストカードに書いて司書に渡してほしい。図書館に求められるのは、無駄な蔵書の数ではなく、価値ある本があるということなのだ。そのことを図書館に教えるのはボクたちユーザなのだ。



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からだ・こころ・たましい 宗教の世界を旅する


岩田先生は昨年、第16回南方熊楠賞を受賞し、田辺では記念の講演会も開かれ(嗚呼行きたかったなぁ)、受賞記念の新刊「森林・草原・砂漠―森羅万象とともに」も出版された。近い未来、岩田先生の講演を聴くことも夢ではないかもしれない。

2007年01月02日

●岩田慶治という人を知っていますか

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岩田慶治という素晴らしい人がいる。
あなたは、岩田慶治(いわたけいじ)という人を知っているだろうか?。
(◎→ 岩田慶治 - wikipedia

ボクが「アニミズム」というキーワードを掲げているのも、90年代半ば、インターネット黎明期に、ボクが最初のアニミズムオンラインを始めたのも、「アニミズム時代」をはじめとする岩田慶治先生の著作の影響だ。

もちろん、それ以外にも多くの素晴らしい人や本の影響もある、あるけれど、ちょうどロウソクの芯のように、いつでも中心にあるものが、岩田文化人類学というとわかりやすいだろうか。

一連の素晴らしい業績がもっともっと注目されるべきだと思うし、そうならないことが不思議でならない。このブログでも、折にふれ、紹介していきたいと思っている。

アニミズムオンラインをスタートした頃、雑誌「STUDIO VOICE」に、各界の人々が、(DJが音楽をセレクトして並び替えてひとつの世界を創るように)書物(テキスト)をセレクトし、それを紹介する「テキスト・ジョッキー」特集があって、ボクもそのひとりとして参加したことがある。

その時、ボクが選んだ本は、尾崎一雄「まぼろしの記・虫も樹も」、志村ふくみ「織と文」、そして「アニミズム時代」の三冊。

(編集者によって)「今ここから遙か彼方への旅」と題されたその文章の中で、ボクはこう綴っている。

 根をはる力と繋がっていく力。この二つの力がともに満ち溢れ絶妙のバランスを保った状態、それこそが僕が今求める精神 = 暮らしのスタイルだ。自分の足下にしっかりと根を下ろしつつ、遥か彼方の何者かとリンクしている。庭先の小鳥の声と地球の裏側の出来事がまるで等しく在る状態。

「Think Globaly,Act Localy」なんていう言葉の遥か以前から営々と繰り返されてきたその土地その土地の暮らし。その暮らしから遥か銀河までをも自分として感じられる巨視的な感性

 花巻の詩人・宮沢賢治がイギリス海岸から太古や銀河に繋がっていったように、僕も、今ここから遥か彼方への旅を始めようと思っている。(中略) 

 正直いってしまうと僕は本当にアニミズム時代の到来を待ち望んでいる。復活ではなく到来である。庭先から虫や樹を見つめることも、色以前の色に思いを巡らせることも、僕にとってはすべてアニミズムの風景である。

 僕にとってはエコロジーもニューエイジもなく、すべてはアニミズムの風景なのだ。もちろん共存、共生などといったことでもない。

これを書いてからすでに12年の歳月が経っているが、これを書いた気持ちは、今も変わっていない。
「今ここ」に根をおろしながら、「どこかと」繋がっているという感覚は、きっとこの先の未来に、とても重要とされる「新しい部族」のスタイルの基本形のように思っている。

そして、ボクは最後にこう結んでいる。

見える世界、見えない世界の万物すべてが生命の輝きに満ち溢れている。 森羅万象は僕の中に出現し、僕は森羅万象の中に出現する。それは同時である。

この最後の部分を、新しいアニミズムオンラインのキャプションとしていこうと思う。






2007年01月01日

●武力で問題は解決されたでしょうか?

昨年11月、フジテレビ「スタメン」で放送された「ダライ・ラマ14世に単独インタビュー」の中から一部を紹介したい。

911の事件以来、私は事あるごとに言っていますが、われわれはイスラム教に対しもっと敬意を払うべきです。一部の人がテロ行為に走っているからといって、それだけで暴力的な宗教と見るべきではありません。お互いを認め合うことこそが、とても大切なのです。21世紀の始まりとともに、イラク戦争が起こりました。今も変わらない状況が続いています。しかし、武力で問題は解決されたでしょうか?。私はされていないと思います。


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帝国主義的な想像力の欠如が、この惑星を覆い尽くそうとしている。ボクたちは加害者になってはいけない。もちろん傍観者でいることもいけない。ジョン・レノンの「イマジン」を持ち出すまでもないだろうが、これからの世界を生き延びるためには、「想像力」をさらに鍛え続けなければいけないのだ。


◎→ ダライ・ラマ法王日本代表部事務所

●アニミスティックな視点でニュースを見る

年が変わるタイミングに合わせて、アニミズム・オンラインanimism onlineをイメージチェンジしてみようと思う。

サイトの形を大きく変えるのは、これで三度目になる。

そのどの時も、心に大きな変化があり、またその変化を喚起してくれた出来事があった。今回は、ブック・カフェ・テトラスクロールのオープニング記念イベントとして行った、北山耕平さんのトーク・ライブがその契機となった。

トーク・ライブからは、まだ一週間あまりしか経過していないので、あくまでも暫定的な形での再出発となるが、どうか許してほしい。

社会の情勢が怪しい今、「アニミスティックな視点でニュースを見る」ことを目標に、ブログ・ジャーナリズムとして機能させていきたいと思っている。ボクらが今まで何を見てきたのか、そして今どこに立っているのか、そして、どこへ向かおうとしているのか・・・、その事をしっかり認識し、そして次の世代に伝えていくことの大切さを、今、強く感じている。だから、animism onlineは生まれ変わる。


◎→ 北山耕平さんのブログ Native Heart